2026年7月9日

マリア・ヴァルトルタの啓示は悪魔由来のものである 18

注)引用文中の〔  〕や強調は私による付加です。
注)私自身の文章の中で時々「あなた」と呼びかけ調で書くことがありますが、これはただ想定上の読者のことです (^^;

悪魔が「文筆」にこだわる理由

「神の愛」を求めるのは、信者として当然。しかしそれでも、もしあなたが「神の優しい愛」というのを特に求めるタイプだったら、そのような自分に気をつけなければならない。何故ならその時、あなたはまずもって「悪魔」についての話を聞きたがらず、従ってそこから一定の「無知」に陥る可能性があるからだ。敵について知ることが大事。しかも、少し詳しく知ることが大事。

私は、物好きにも、「悪魔」について少し AI に質問してみた。すると、ちょっと「出色」とも言いたいような回答を返して来た。

まず、私はこう訊いた。

悪魔学において、文筆を得意とする悪魔は紹介されていますか?

AI はいろいろな悪魔の名を挙げた。省略。

次に私はこう訊いた。

エクソシズムの記録の中にそのようなものがありますか?

以下が AI の回答である。(注目は4)

実際の歴史的なエクソシズム(悪魔祓い)の記録の中にも、文筆や極めて高い知性・雄弁さを誇る悪魔の記述は明確に存在します。

特に16〜17世紀のヨーロッパで起きた集団憑依事件の裁判記録や、カトリック教会の「悪魔憑きの識別基準」には、そうした悪魔の特長がリアルに生々しく記録されています。代表的な事例と現象は以下の通りです。

  1. 驚異的な文筆能力の事例:ルーダンの憑依事件

    1634年にフランスで起きた「ルーダン事件」では、修道女たちに多くの悪魔が憑依したとされました。この事件の公式記録には、悪魔による「文筆の奇跡(怪異)」が残されています。

    • 悪魔との契約書: 主犯とされた神父の家から、悪魔たちが署名したとされる「悪魔の契約書」が証拠品として提出されました。この文書は、ラテン語の鏡文字(左右反転の文字)や、人間には到底書けないような奇妙な筆跡と署名で埋め尽くされており、悪魔が「高度な文書作成能力」を持つ証拠とされました。

    • 神学論争の筆記: 憑依された修道院長は、悪魔アスモデウスらの力によって、普段の彼女では知り得ない高等な神学やラテン語の詩、複雑な文学的レトリックを用いた文章を、凄まじい速度で書き殴ったと記録されています。

  2. 修辞学・雄弁さを発揮する悪魔:エクス=アン=プロヴァンスの事件

    1611年のフランスの憑依事件では、「雄弁さと修辞学(レトリック)の悪魔」として知られるバアルベリト(Balberith)が憑依したと記録されています。

    • エクソシスト(祓い魔師)の執拗な尋問に対し、この悪魔は神学的な矛盾を突く高度な弁論を展開しました。

    • 裁判の記録によると、悪魔は尋問する神父たちを言葉で翻弄し、あまりにも見事なレトリックと美しいラテン語で演説を行ったため、傍聴していた学者や裁判官たちが「まるで一流の哲学者や修辞学者のようだ」と驚嘆したとされています。

  3. エクソシズム記録に共通する「言語・文筆」の怪異

    カトリック教会が定めた悪魔祓いの公式マニュアル『ローマ儀式書(Rituale Romanum)』では、本物の悪魔憑きかどうかを見極める基準として、まさに「文筆や言語の異常性」が挙げられています。

    • 異言の流暢な行使(グロッソラリア): 一度も学んだことがないはずの高度なラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語などを、完璧な文法と優雅な文学的表現で話し、さらには記述すること。

    • 隠された知識の暴露: 遠く離れた場所で書かれている未公開の書物の内容や、他人が心の中で推敲している最中の文章を正確に言い当てること。

  4. 悪魔が「文筆」にこだわる理由

    当時の記録を分析する歴史学においては、悪魔が文筆や雄弁さを得意とするのは「人間を惑わすための最大の武器が『言葉(ロゴス)』だからである」と結論づけられています。正しい教理を歪め、洗練された美しい文章や弁論で人間を誘惑するために、地獄の悪魔たちは文学や修辞学に極めて通じているのだと、当時の人々は恐怖を込めて記録に書き残しました。

「当時の人々は」というのだけ余計だが、このようなことを「可能性」としてさえ全く思わない人たちも大勢いることを考えれば、「出色の回答」と評価したくもなる。

そのような人たちとして思い出すのは、天使館が挙げていた、あの「有力者」たちである。彼らはこう言ったのである。

この全集には、思索にしても、文体にしても、光彩を放つ見事な頁が散在している。その心理的状況の描写は、シェークスピアにも比肩し … (参照)

この作品は、文体といい、言葉と表現形式の美しさといい、… 正真正銘の名作だ (同参照)

事の真実を知れば、彼らのこのような感想は「お目出度い」としか言いようがない。彼らは、悪魔にはその程度の文章力は十分にあるということを全く知らない(「可能性」としてさえ全く思わない)のである。それで、呑気にこのような高評価を悪魔に与える。

「悪魔が人間を騙すのは赤子の手首をひねる事ほど容易い」というような言い方があるが、この人たちはいかに地上で「有力者」であろうと、霊的な視点から言えば、全くもって「騙され易きこと、子供の如し」である。恥かしい。

「(悪魔は)洗練された美しい文章や弁論で人間を誘惑する」というのは単なる学説ではなく、今、その生々しい実例があなた方の目の前にありますよ、と、私はヴァルトルタ支持者たちに言いたい。

2026年6月30日

マリア・ヴァルトルタの啓示は悪魔由来のものである 17

注)引用文中の〔  〕や強調は私による付加です。
注)私自身の文章の中で時々「あなた」と呼びかけ調で書くことがありますが、これはただ想定上の読者のことです (^^;

ヴァルトルタの「マリア」とエンメリックの「マリア」は
その心の有り様において《別人》である

エジプトへの困難な逃避行において、ヴァルトルタの「ヨゼフ」は「物」を頼みとし、「マリア」もそれに同調する。エンメリックのマリアは「物」に乏しく、「神」を頼みとする。

ヴァルトルタ

英訳版から、「エジプトへの逃避」の章の「幻視」の部分を全文、訳す。長文であり、英文を併記すると目障りなので、それは省く。
それにもかかわらず、文中、私のコメントを差し挟む。勝手な言い分だが、これを目障りと思わないで欲しい。
悪魔の作文を真面目に訳すのは虚しい。しかし一応、真面目に訳した。

第1巻  p. 179(archive.org)

35. The Flight into Egypt. 内

改訂版

35.エジプトへの逃避

1944年6月9日

私の魂は次のような光景を目にする。

夜。ヨゼフはとても小さな部屋の小さなベッドで眠っている。一日中正直で勤勉な仕事を終えた男の穏やかな眠り。

薄暗い部屋の中に彼が見える。というのは、狭い部屋が暑すぎるのか、それとも夜明けの光が入ってきた時に目覚めてすぐに起き上がりたいのか、少し開いたままにしてある窓の鎧戸から細い月光が差し込んでいるからだ。彼は横向きに寝そべり、夢の中で見た何かの幻影に微笑んでいる。

しかし、彼の微笑が不安の表情に変わる。まるで悪夢でも見たかのように深くため息をつき、はっと目を覚ます。ベッドに座り、目をこすり、あたりを見回す。微かな光が差し込む小さな窓に目をやる。真夜中だが、ベッドの足元に置いてあるローブをつかみ、ベッドに座ったまま、肌に直接着ている白い半袖チュニックの上に羽織る。毛布を払い除け、足を床につけ、サンダルを探す。サンダルを履き、紐を結ぶ。立ち上がると、ベッドの横にある、東方の三賢者が迎えられた大きな部屋に通じるドアではなく、ベッドに面したドアに向かう。

彼は指先でとても優しく、そっとノックする。入るようにという声が聞こえたのだろう、彼は音を立てずに慎重にドアを開け、少し開けたままにする。彼は、ドアに向かう前から、小さなオイルランプに火を灯し、それで足元を照らしている。彼は中に入る。その部屋は彼の部屋より少し広く、揺りかごの近くに低いベッドがあり、隅にはナイトランプが置いてある。その揺らめく炎は小さな星のように見え、柔らかな金色の光を放ち、眠っている人を起こさずとも周囲を見ることを可能にしている。

しかし、マリアは眠っていない。彼女は薄手の服を着て揺りかごのそばにひざまずき、安らかに眠るイエズスを見つめながら祈っている。イエズスは、私が東方の三博士の幻で見たのと同じくらいの年齢である。1歳くらいの、美しく、血色の良い金髪の子供である。彼は巻き毛の頭を枕に沈め、握りしめた拳を顎の下にして眠っている。

「眠ってないのですか?」と、ヨゼフは驚いた小さな声で尋ねる。「なぜです? イエズスの具合が悪いのですか?」

「いえ、大丈夫です。彼は無事です。今、お祈りしているところでした。後で寝ます。どうして来たのですか、ヨゼフ?」と、マリアは同じ場所にひざまずいたまま言う。

ヨゼフは子供を起こさないようにとても小さな声で話すが、その声は興奮している。「ここをすぐ離れなければなりません。すぐにです。箱と袋に、詰められるだけの物を詰めてください。他の物は私が準備します。できるだけ多くの物を持って行きます・・・夜明けに逃げましょう。もっと早く行きたいのですが、宿主の女性に話さなければなりません・・・」

ここらで私は「違和感」を感じ始める。
無論、このような場合に「できるだけ多くの物を持って」行こうとするのは、現代の私たちにとっても普通のことである。しかし私は、ヨゼフ様(本当のヨゼフ様)はそういうのとはちょっと違っている、と思っている。だから、上のような「ヨゼフ」の精神傾向には「違和感」を感じるのである。

 

「でも、なぜなんです?」

「後でお話しします。イエズスのためです。天使が私にこう言いました。『幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい』。時間を無駄にしないでください。私はできる限りの準備をします。」

マリアに時間を無駄にしないように言う必要はない。ヨゼフが、天使、イエズス、そして逃亡について話すのを聞いた途端、マリアは自分の愛しい子供が危険に晒されていることを悟り、飛び上がるように立ち上がった。顔は蝋よりも白くなり、片手を胸に当て、完全に動揺した。そして、素早く機敏に動き回りながら、使われていなかった自分のベッドの上に箱や大きな袋を置き、それらの中に衣類を詰め込んだ。彼女は気落ちしているが、冷静さは失わず、素早く、しかし秩序正しく行動する。時折、揺りかごのそばを通るたび、穏やかに眠る幼子を見つめる。

「手伝いましょうか?」と、ヨゼフは時折、少し開いたままにしてあるドアから部屋の中を覗き見ながら尋ねる。

「いいえ、結構です」と、マリアはそのたびに答える。

袋がいっぱいになり、明らかに非常に重くなった時だけ、彼女はヨゼフを呼び、袋を閉じてベッドから降ろすのを手伝ってもらう。しかしヨゼフ自身は、手伝ってもらうのを望まず、自分一人でやるのを好み、その長い袋を自分の小さな部屋に運ぶ。

「ウールの毛布も持って行きましょうか?」と、マリアは尋ねる。

> 「ウールの毛布も持って行きましょうか?」

このような気の回し方は、本当に、私たちと同じである。

更に、「マリア」のこの問いかけに対して、「ヨゼフ」は「物が役に立つでしょう」と答える! ↓

 

「できるだけ多く持って行きましょう。残りは置いていかねばなりませんが、できるだけ多く持って行きましょう。物が役に立つでしょう。なぜなら・・・私たちは長い間離れなければならないからです、マリア!・・・」と言いながら、ヨゼフはとても悲しそうである。マリアの気持ちは容易に想像できる。彼女は深くため息をつきながら、自分の毛布とヨゼフの毛布を畳む。ヨゼフは毛布をロープで結びながら、「布団と敷物は置いて行きます。ロバは三頭あるとはいえ、過重に積むことはできません。山や砂漠を通る長くて不快な旅になります。イエズスをしっかり覆ってください。山でも砂漠でも夜は寒いでしょう。東方の三博士の贈り物は、この先とても役立つでしょうから、持ってきました。持っているお金をすべて使ってロバを二頭買います。ロバは返すことはできないので、買わなければなりません。夜明けを待たずに今すぐ行きましょう。ロバの在処は知っています。あなたも準備万端にしてください」と言い、彼は出て行く。

マリアはもう少し物を集め、イエズスを見つめた後、外に出て、おそらく前日に洗ったのだろう、まだ湿っているように見える小さな服を何着か持って戻って来る。マリアはそれらを畳み、布で包み、他の物に加える。これで、他に用意すべきものは何もない。マリアはあたりを見回し、部屋の隅にイエズスのおもちゃの一つ、木彫りの小さな羊を見つける。彼女はすすり泣きながらそれを取り、それにキスする。木にはイエズスの小さな歯の跡があり、小さな羊の耳はすっかり齧られている。マリアは、何の価値もない、ただの軽い木片に過ぎないそれを愛撫する。しかし、それは彼女にとっては大きな価値を持つ。なぜならそれは、ヨゼフのイエズスに対する愛情を物語るものだし、彼女に彼女の子供について語りかけるものだから。マリアはそれを、閉じられた箱の上に置かれた他の物の中に加える。

ここから先、例の「マリアの授乳シーン」が始まる。
しかし私は、「文章」というものは恐ろしいと思う。このような多量な文章の中に紛れ込まされたそれは、人々の注意を引かないだろう。この文章の世界観に漬かりながらここまで読んできた人は、気づかないだろう。

 

今や、他には本当に何も残っていない。小さな揺りかごの中のイエズスだけである。マリアは、赤ちゃんの準備もしなければならない、と思う。揺りかごのところに行き、赤ちゃんを起こそうと少し揺する。しかし赤ちゃんは、少し泣き声をあげ、寝返りを打ち、また眠り続ける。マリアは赤ちゃんの巻き毛を優しく撫でる。イエズスはあくびをして小さな口を開ける。マリアは屈んで赤ちゃんの頬にキスする。イエズスは完全に目を覚ます。目を開け、母親を見て微笑み、小さな手を母親の胸に伸ばす。

「そうよ、ママの愛。そうよ、あなたのミルク。いつもより早いのね・・・でも、あなたはいつもママのおっぱいを吸う準備ができているわ。私の小さな聖なる子羊ちゃん!」

イエズスは笑い、遊び、毛布から小さな足を蹴り出し、子供に典型的な仕草で腕を楽しそうに動かす。その姿は実に愛らしい。足を母親のお腹に押し付け、背中を反らせて白い頭を母親の胸に寄りかからせ、それから体を後ろに反らせて笑い、マリアの首元で結ばれているドレスの紐をつかみ、それをほどこうとする。小さな麻のシャツを着たイエズスは、ふっくらとしていて、花のようにバラ色で、とても愛らしい。

マリアは身を屈め、まるで守るかのように揺りかご越しに中を覗き込み、微笑みながら同時に泣いている。その間、子供はしきりに何か言い、幼い子供とは思えない言葉を発する。その中には「ママ」という言葉がはっきりと繰り返されている。子供は泣いているマリアを見て驚いている。小さな手を涙の跡に伸ばし、マリアの顔を軽く叩くと、その手が濡れる。そして、とても優雅に、再び母親の胸に寄りかかり、その乳房にくっつき、手で軽く叩く。

マリアはイエズスの髪にキスをし、抱き上げ、座って服を着せてやる。小さな毛糸の服を着せ、サンダルを履かせる。マリアはイエズスに乳を与え、イエズスは母の良質な乳を貪るように吸う。右の乳房から少ししか出ないと分かると、左の乳房を探す。彼は笑いながらそのようにし、母親を見上げる。そして、バラ色の丸い頬を母の白くて丸い乳房に押し当て、再び母の胸で眠りにつく。

マリアはゆっくりと起き上がり、自分のベッドの掛け布団の上に彼を寝かせる。彼女は自分のマントで彼を覆い、揺りかごに戻って小さな毛布を畳む。彼女は小さな敷布団も持っていくべきかどうか迷う。それはとても小さい。持っていくことができる。彼女はそれを枕と一緒に、既に箱の上にある他の物の近くに置く。そして彼女は空っぽの揺りかごを見下ろしながら泣く。かわいそうな母よ、自分の小さな子のために迫害される母よ。

> 持っていくべきかどうか迷う。

この「マリア」はこのように、最後まで「物」について腐心する。

ヨゼフが戻ってきて言う。「準備はできましたか? イエズスの準備はできましたか? 毛布と小さなベッドを準備しましたか? 揺りかごは持って行けませんが、少なくとも彼の小さな敷布団は持って行かねばなりません。かわいそうな赤ちゃん、彼らは彼の命を狙っているのです!」

ここから先、このカップルの「くさいやり取り」が始まる。失礼。しかし、私にとっては「くさい」のである。まるで安手のドラマを見せられているよう。

「ヨゼフ!」とマリアは叫びながら、彼の腕をつかむ。

「ええ、マリア、彼の死です。ヘロデは彼を殺したがっているのです・・・なぜなら、あの汚らわしい獣は彼を恐れているからです。彼の人間的な王国のために、この罪のない幼子を恐れているのです。幼子が逃げ出したと知ったらどうするのか、私には分かりません。でも、その頃には私たちは遠く離れているでしょう。彼がガリラヤまで手を伸ばして彼を探し出して復讐するとは思えません。私たちがガリラヤ人であること、とりわけ私たちがナザレ出身であること、そして正確に私たちが何者なのかを知ることは、彼にとっては非常に難しいことでしょう。サタンが、忠実な僕であることへの感謝として、彼を助けでもしない限りは。しかし・・・もしそんなことが起こったとしても・・・神が私たちを同じように助けてくださることでしょう。泣かないで、マリア。あなたが泣いているのを見るのは、私が流刑に処されることよりもずっと辛いことなのです。」

これを言っているのは、その「サタン」です。
茶番です、茶番。

そして、この安っぽいメロドラマはまだ続きます。

 

「許して、ヨゼフ。私は自分のために泣いているんじゃないの。失うわずかなもののために泣いているのでもない。あなたのために泣いているのよ・・・あなたはもう既にたくさんの犠牲を払ってきたじゃない! そして今、あなたは客の訪問も家も失うことになる。私はあなたにどれだけの負担をかけていることか、ヨゼフ!」

「どれだけの負担だと言うのです、マリア。あなたは私にとって何の負担にもなりません。あなたは私の慰めです。常にそうです。この先のことは心配しないでください。私たちには東方の三賢者の贈り物があります。最初の数日間はそれで間に合うでしょう。その後は仕事を見つけます。腕の良い職人は必ず道を切り開きます。ここで何が起こったか、あなたも見たでしょう。私は抱えている仕事が多すぎて、時間が足りませんでした。」

「分かっています。でも、誰があなたの故郷への郷愁を和らげてくれるでしょう?」

「では、あなたはどうなのです? あなたにとってかけがえのない故郷への思いを、誰が癒してくれるというのです?」

「イエズスです。イエズスがいるから、私は故郷で持っていたすべてを持っています。」

「私だって、イエズスがいれば、数ヶ月前まで希望を抱いていた故郷を取り戻せます。私には神がある。私にとって最も大切なものを少しも失っていないことは、あなたにも分かるでしょう。大切なのはイエズスを救うことだけです。それさえすれば、私たちはすべてを持っていることになります。たとえ二度とこの空を見ることができなくても、この国を見ることができなくても、もっと大切なガリラヤの地を見ることができなくても、私たちは常にすべてを持っていることになります。なぜなら、私たちはイエズスを持っているからです。さあ、マリア、夜が明けようとしています。女主人に別れを告げて、荷物を積み込むべき時です。すべてうまくいくでしょう。」

お二人さん、お話しが終わったようで良かったです。早く避難しなさいねw

悪魔さん、人間の心を動かそうとしての「人間ドラマ」は、もう結構だから。これじゃ、敏感な人たちの目は誤魔化せませんよ。

 

マリアは素直に立ち上がり、マントを羽織る。その間にヨゼフは最後の包みを作り、それを持って外に出る。

マリアは幼子を優しく抱き上げ、ショールで包み、胸に抱きしめる。数ヶ月間、自分をもてなしてくれた壁を見つめ、片手でそっと触れる。マリアに愛され、祝福されるに値する、幸せな家である。

彼女は外に出る。ヨゼフの小さな部屋を通り抜け、大きな部屋に入る。宿主の女性は涙ながらに彼女に別れのキスをし、ショールの端を持ち上げて、穏やかに眠っている子供の額にキスをする。二人は外の階段を下りていく。

夜明けの最初の光で、彼らはかすかに物を見ることができる。薄暗い光の中で、三頭の小さなロバが見える。一番力強いロバには荷物が積まれている。他の二頭には鞍がつけられている。ヨゼフは最初のロバの荷鞍に箱と荷物を固定するのに忙しい。袋の上に彼の大工道具が束ねられているのが見える。さらなる涙と別れの後、マリアは小さなロバに乗り、宿主の女性はイエズスを腕に抱き、もう一度キスする。それからイエズスをマリアに返す。ヨゼフは、マリアのロバの手綱を持つことができるように、荷物を積んだロバに自分のロバを繋いでから乗る。

ベツレヘムがこれから起こる出来事に気づかずに、今も東方の三賢者の幻影的な光景を見ながら安らかに眠っている間に、逃亡が始まる。

ベツレヘムが幻影的な光景を見ながら安らかに眠ってるんだ。悪魔さん、最後は文学的な擬人法で締めましたな。

こうしてこの幻影は終わる。

エンメリック

エンメリックによる同じ場面を見てみよう。
英語訳にもドイツ語原文にも当たらず、既存の和訳を拝借。
(が、英語訳の HTML がここで読める。より詳細である。)

光明社刊『聖家族を幻に見て』坂井兵吉 訳 pp. 94-101

15 エジプトへの避難

 ヘロデは王達がもどって来ないのをみて、始めのうちはきっと何も見付けなかったのだろうと考えていた。ところがシメオンとハンナの預言を聞き、不安がふたたび頭をもたげ、王達がエルサレムに着いた時のように非常に心配しはじめた。かれは付近の要所に兵隊を配置した。反乱をあらかじめ防ごうとしたのである。ところが住民達はなぜ兵隊が配備されたのかさっぱりわからないため非常に動揺した。兵隊の駐留は九か月程もつづけられた。幼児達の虐殺はヨハネが約二才の時に始まった。

 アンナとマリア・ヘリがまだ聖家族の家にいたころ、光り輝く若者がヨゼフの寝台に近づき、かれに話しかけた。ヨゼフは起き上ったが眠りがさめず、また寝込んでしまった。すると若者はヨゼフの手を取って引き起こした。ヨゼフが目を充分にさまして立ち上がると若者の姿は消えた。ヨゼフは部屋の真中にあるランプの所へいって灯をともした。

 それからヨゼフはマリアの部屋の前にいき、扉をたたいて入ってもよいかと尋ねた。ヨゼフは中に入りマリアと話をしたが、マリアは垂れ幕を引かずにいた。かれは厩に行き、ロバを曳いて来ると、また部屋にもどっていろいろな荷物の準備をした。

 マリアは起きてすぐに旅装を整えアンナの許へ行った。マリア・ヘリとその子供も起きてきた。わたしはアンナとこの姉の悲しみがどれ程胸を打つものであったか、とても言い表わす事ができない。アンナはいくどもマリアを抱きしめ、もう互に会えない別れのように自分の胸に押し当てた。姉は地に身を投げてむせび泣いた。

 マリアは出発の少し前になってやっとイエズスを寝台から抱き上げた。皆はイエズスを自分達の胸に押し当てた。姉の子供までがイエズスを抱いた。

 マリアは長いマントで自分と幼児を被った。すべては非常に静かに手早く行なわれたが、旅行に準備するものは僅かしかなかった。

 マリアは幼児の着がえもしなかった。ベトレヘムから持って来たものよりもはるかに少ないものを持って出て行った。小さな包みと僅かばかり身に掛ける物だけを持った。[管理人注1]

 ロバにはマリアとおん子のための鞍が置かれた。はじめマリアはアンナと一緒に歩いて行った。ヨゼフがロバを引いて後ろから来ると、アンナはもう一度マリアを抱き祝福を与えた。それからマリアはロバに乗って進んだ。聖家族が家を出たのは真夜中前であった。幼児イエズスは生まれて十二週(八十日)になっていた。[管理人注2]

 アンナはヨゼフの家の一切のものをまとめて、自分の家へ持って行った。

 聖家族はこの夜多くの地方を通り過ぎ、翌朝になってはじめてある小屋で休んだ。

 この旅がどれ程困難なものであったかはとても語る事ができない。聖家族はいつも大きな道から一マイル程東へずれた所を歩き、また普通の宿屋を避けていたので、すべてのものに欠乏した。[管理人注3]

 ある星月夜に聖家族は低い茂みの生えた砂地の荒野を通って行った。わたし自身も一緒にそこを歩いているかのように非常に鮮明にその場を見ていた。そうこうするうちに非常に荒れ果てた地方に出て、聖家族はどうしたらよいか途方にくれてしまった。道を見失い、どうしても探す事ができなかった。

 マリアはすっかり疲れ果てて、うれいに沈んだ。その時道から離れた所に、灯が夜の闇を通して見えた。それは旅人を誘う盗賊小屋の灯で、小屋の側の木に掛けてあった。道はそこで階段状に掘り込まれ、旅人の来る事がわかるように、鈴のついた縄が張ってあった。そして突然一人の男が五人ばかりの仲間と共に聖家族に向かって襲いかかってきた。

 かれらは悪いもくろみを抱いていたが、イエズスに一目接するいなや、一条の光線が矢のようにさきの男の心を貫いた。するとその男は仲間に向かって、この旅人に一指も触れてはならないと命令した。

 かの盗賊は聖家族を自分の家へ案内し、妻に向かって自分が非常に感動した事を語った。そこの人達はふだんとは打って変わり、始めのうちたいへん恥かしそうにしていたが、だんだん近寄ってきてとうとう聖家族を囲んでしまった。

 その妻はマリアに小さなパンや果物、蜂蜜や飲み水の入った小鉢などを持ってきた。ろばも屋根の下につながれた [管理人注4] 。かの女がイエズスに湯を使わせようと桶に水を入れて持ってくると、夫は非常に感動しながら妻に言い聞かせた。

 「その幼児は普通の人間じゃない。だからこの人にお願いしてわたしたちの病気の子をこの幼児の使った水で洗わしてもらおう。きっとよくなると思うよ。」

 かの女はマリアにその事を願おうと考えていたが、願う前にマリアからその病気の子をこの水で洗うようにと言われた。その子は三才ぐらいで体中できものだらけであった。子供がつれて来られて水に触れると、病気の所がたちまち鱗のように剥げ落ちてきれいになおってしまった。

 その妻はうれしさのあまり有頂天になって、マリアとイエズスに抱き付こうとしたが、マリアは手を上げて遮り、自分にもおん子にも触れさせなかった。しかし、井戸を岩の底まで深く掘り下げて今使った水を入れておくように、そうすればいつまでもまた同じような事に使えるからとその妻に告げた。

 マリアは長い間かの女と語り、折りがあったら現在の境遇から抜け出すように約束させた。人々は非常に喜んで、聖家族を不思議そうに見つめていた。その夜、他の者達も来合わせたが、この者達にも子供がすっかりなおった事が話された。

 マリアはその夜一睡もせず、土間にしつらえた寝床の上でそっと静かに坐っていた。

 次の朝、聖家族はふたたび旅に上った。盗賊とその妻はもっと長く泊ってもらいたがっていた。

 かれらは聖家族に食物を贈り、多くの地の窪みをぬって案内してくれた。この人々は別れの時非常な感動とともに「あなたがたがお着きになった場所で、わたしたちの事を思い出して下さい!」と驚くような言葉をのべた。わたしはこの言葉を聞いた時、そのなおった子供が後に十字架上のイエズスに向かって「あなたがそのみ国に行かれた時、わたしを思い出してください。」と言ったあのよい盗賊になった幻を見た。

 その後聖家族が砂地で道がわからなくなった時、ほほえましい不思議なことが起こった。道の両側でエリコのばらと呼ばれる植物が芽を出したのである。喜びと力を得て聖家族がその芽に沿って進むと、見渡す限りの植物が芽をふいて進むべき道を示した。

 聖家族はそれからたくさんの溝や濠のある地方に出た。これらの水を越えて行かなければならなかったが、二人の醜い褐色の半裸体の男があらわれて渡してくれた。

 その後聖家族は平坦な緑の牧場になっているエジプトの土地に入った。木には偶像が取りつけてあった。あちらこちらから、ずんぐりと肥った人々が現れてこの偶像を拝んでいた。

 聖家族はこの土地で食物が思うように得られず困っていた。誰も何も与えてくれなかった。じつにこの逃避行ではあらゆる人間の不幸に耐えて行かなければならなかった。最後に羊飼達が家畜に水を飲ませに来たが、ヨゼフが頼まなかったらこの人達も何も与えてくれなかっただろう。

 しかしかれらは井戸をあけて少しばかりの水をくれた。

 その後聖家族はすっかり疲れ果てて、頼る者もなく林の中で休んでいた。

 この林の出口に細長いなつめ椰子の木が立っていて、実が梢の先端についていた。

 マリアがイエズスを抱いてその木の方に行き、祈っておん子を高くかかげると、木が跪くかのように、梢の先端を曲げたので実をもぎ取る事ができた。

[管理人注1]   ほら見ろ、というところ。ヴァルトルタの「マリア」と何と対照的であることか! まさに正反対!
しかし私は、これが本当なのだろうと思う。「物」を頼みとすることの多い私たちの目には「不可解」と映ろうとも、真の「マリアとヨゼフ」はこんな感じだったのだろうと思う。

[管理人注2]   ヴァルトルタの物語では、この時の「幼子イエズス」の年齢は「1歳くらい」となっていた。対してエンメリックは「生まれて十二週(八十日)」。私はエンメリックの方が聖書ともずっと整合するような気がする。が、私の読み方が間違っていなければ、エンメリックは別の証言ではそれとはまたちょっと違った年齢(月数)を言っているようだ。彼女自身、少し不確かなところがあるようだ。だから、私はこれについては判断保留とする。

ところで、聖書に従えば、東方の三博士が幼子イエズス様を訪ねた時、ほとんど「産まれたて」のイエズス様を訪ねたのであり、ヘロデもその少し前にイエズス様の御生誕を知ったのである。

ところがヴァルトルタの話では、その「マリアとヨゼフ」は「幼子イエズス」が「1歳くらい」になって初めてヘロデの脅威を知り、避難を始めたのである。とすれば、ヘロデは「東方の三博士にだまされた」と知って動き始めるまで何か月もかかったのか。ずいぶんのんびりした話である。しかし、聖書によれば、そんなことはなく、彼はそう知って「すぐに」動き始めただろう。しかしヴァルトルタは、そもそも「東方の三博士の訪問」自体を「幼子イエズス」が「1歳くらい」の時としているのである(確認)。ということは、三博士たちを導いた星も、主の御生誕から彼らを導き始めるまで、何か月かどこかで待機していたのか。やはり、のんびりした話である。

対してエンメリックは、聖家族がエジプトに避難した時のイエズス様の御年齢を「生まれて十二週(八十日)」としている。この方が遥かに自然であり、聖書とも整合しているだろう。

もう一つ言おう。これを考えることさえイエズス様に失礼というものだが、「生まれて十二週(八十日)」という御年齢では、いかにイエズス様といえども、「母親の首元で結ばれているドレスの紐をつかみ、それをほどこうとする」(前回参照)ことはできなかっただろう。悪魔は仮想「幼子イエズス」にそのようなことをやらせたかったばかりにその年齢を「1歳くらい」にしたのかも知れない、とさえ私は思う。(馬鹿馬鹿しい? いや、馬鹿馬鹿しいのは悪魔の方ではないですか?)

私は、天使館や他のヴァルトルタ擁護者たちに、今一度はっきり申し上げたい。ヴァルトルタの話は「悪魔の馬鹿話」に過ぎない。
(悪魔が彼女の筆を導いて書かせたのだから、私はヴァルトルタのことはあまり責めたくはないが。)

[管理人注3]
> いつも大きな道から一マイル程東へずれた所を歩き、また普通の宿屋を避けていた

これはまさしく「逃亡者」の動きである。「さもありなん」である。

> すべてのものに欠乏した。

すべてのものに欠乏し、時に途方に暮れる聖家族を、この後、奇跡的な事が助けることになる。一つは、悪人の心をも変えてしまうような奇跡、もう一つは自然物(植物など)が助ける奇跡である。
ヴァルトルタの「イエズス」は、これらを「作り話」だと言うかな? 「作り話」をしているのは、あなたの方なのだが。

[管理人注4]   ロバは一頭のみだったろう。第一には、彼らは貧しかっただろうから。そして第二には、一般的に言っても、「逃亡」のためには人目につくものは避けたいだろうから。ヴァルトルタは「ロバ三頭」などと言っている。目立つなぁ。

歴代の美術を見てみよう。画家だって、基本的には聖書の記述から素直に受けた印象を描いているだろう。画像検索
このように、聖家族が連れているロバはほとんど常に「一頭」のみである。そして、幼子イエズス様を抱いたマリア様がロバに乗り、ヨゼフ様は手綱を引いて徒歩である。

しかし、ヴァルトルタとヴァルトルタの支持者たちは気にしないだろう。「だって、そう見たんだもん」というところ。

結 論

ここに、共に本物らしく思われるAという幻視とBという幻視があるとする。ところが、主イエズス様の御生涯の同じ場面を幻視したはずが、AとBでは違っている場合がある。そんな時、人はこう考える。

具体的な描写が多少違っていたとしても問題でない場合がある。というのは、こういうものは天国が幻視者に『象徴的』に見せている場合があるからである。それゆえ、具体的な描写が多少違っていたとしても、その場面が含む『真実性』という点では両者ともに問題ないという場合がある。

なるほど。しかし私は言う。今回の場合はそれには当たらないと。何故なら、今回はその「真実性」というものにおいて、ヴァルトルタの「マリアとヨゼフ」とエンメリックの「マリアとヨゼフ」とでは「正反対」だからである。人生を渡るにおいて何を「頼み」とするかという重要な問題において、一方は現代の私たちのように多く「物」を頼みとするに対し、他方は「物」に乏しく、結果的にであれ何であれ、ほとんど「神」のみを頼みとしている。この「心の様相」の違いは明らかであり、二つのグループは「別物」と言うしかない。

ヴァルトルタの「イエズス」は「エンメリックの本」にケチを付けているが(今シリーズ記事の4と5を参照のこと)、真実はそれとは逆である。見事なまでに逆である。

補 足

うまく言えなかったかも知れないので補足する。

私も、「本当のマリア様もヨゼフ様も、心のどこかでは『もう少し物があれば... 』とお考えになっていたかも知ない」と思う。しかし、たとえそうだったとしても、彼らは「控えめに」そう考えただろう。何故なら、「物」はそれ自体で存立しているのではなく、あくまで「神の恵み」だから。「労働の実り」「労働の対価」と考えることもできるけれど、それでもその奥は「神」だから。「神」なくしてはそれらもないのだから。そういうことを常にどこかで意識しているのが「信仰者」である。

しかし、ヴァルトルタの「ヨゼフ」の「物が役に立つでしょう」という言い方は、信仰者でなくてもする言い方である。

2026年6月25日

マリア・ヴァルトルタの啓示は悪魔由来のものである 16

注)引用文中の〔  〕や強調は私による付加です。
注)私自身の文章の中で時々「あなた」と呼びかけ調で書くことがありますが、これはただ想定上の読者のことです (^^;

サブリミナル的

今シリーズ記事の7で、この言葉 ↑ を出したのだった。「また後で書く」と書いたので、書かなくちゃ。

まず、私は、「文章」というもののうち「描写的な文章」というのは、ほぼイコール「映像」だと思う。(言うまでもない当り前のことを言って恥ずかしい。)

以前、テレビの或るバラエティ番組を見た。そこでは「辛口」で知られる女性の俳句講師が、番組出演者たちが提出する俳句作品を講評・添削していた。彼女によれば、俳句の「言葉」がそれを読む者の脳裡にありありと「映像」を浮かび上がらせるのが「良い俳句」であることの一つの要件であるようだった。私は俳句界でそのような見方が標準的なものであるかどうか知らない。しかし兎に角、「言葉」というものが時に「映像」を喚起するものであることは確かだ。(こんな例を持ち出す必要はないのに持ち出して、恥ずかしい。)

さて、ホーヴァット博士が取り上げていたシーンをもう一度見よう。それは、「Vのイエズス」がヴァルトルタに幻視させたところの「聖母の授乳のシーン」である。

今、「シーン」という言葉を使ったのは、その場面を一つの「映像」として見たいからである。

それは聖家族がエジプトへの逃避行を慌ただしく準備する様を描いた章、「35. The Flight into Egypt.」に含まれる。

ヨゼフは夢の中で「エジプトに逃げよ」との天使の警告を受ける。そして、それを伝えるべく、マリアとイエズスがいる部屋に入る。

第1巻  p. 179(archive.org)

35. The Flight into Egypt. 内

改訂版

彼は指先でとても優しく、そっとノックする。〔…〕

He knocks very gently, a very soft knocking with the tips of his fingers.〔…〕

イエズスは、私が東方の三博士の幻で見たのと同じくらいの年齢である。1歳くらいの、美しく、血色の良い金髪の子供である。彼は巻き毛の頭を枕に沈め、握りしめた拳を顎の下にして眠っている。

Jesus is the same age as I saw Him in the vision of the Magi: a Child about one year old, beautiful, rosy and fair haired. He is sleeping with His curly head sunk in the pillow and a clenched fist under His chin.

「1歳くらい」というのを覚えておいてもらいたい。

マリアはヨゼフに促されて逃避行の準備を始める。
物の準備が終わった後。↓

〔中略〕

マリアは、赤ちゃんの準備もしなければならない、と思う。揺りかごのところに行き、赤ちゃんを起こそうと少し揺する。しかし赤ちゃんは、少し泣き声をあげ、寝返りを打ち、また眠り続ける。マリアは赤ちゃんの巻き毛を優しく撫でる。イエズスはあくびをして小さな口を開ける。マリアは屈んで赤ちゃんの頬にキスする。イエズスは完全に目を覚ます。目を開け、母親を見て微笑み、小さな手を母親の胸に伸ばす。

Mary thinks She ought also to prepare the Child. She goes to the cradle and shakes it a little to wake up the Baby. But He whimpers a little, turns round and continues to sleep. Mary pats His curls gently. Jesus opens His little mouth yawning. Mary bends down and kisses His cheek. Jesus wakes up completely. He opens His eyes, sees His Mother and smiles and stretches His little hands towards Her breast.

「そうよ、ママの愛。そうよ、あなたのミルク。いつもより早いのね・・・でも、あなたはいつもママのおっぱいを吸う準備ができているわ。私の小さな聖なる子羊ちゃん!」

«Yes, love of Your Mummy. Yes, Your milk. Before the usual time... But You are always ready to suck Your Mummy's breast, My little holy Lamb!»

イエズスは笑い、遊び、毛布から小さな足を蹴り出し、子供に典型的な仕草で腕を楽しそうに動かす。その姿は実に愛らしい。足を母親のお腹に押し付け、背中を反らせて白い頭を母親の胸に寄りかからせ、それから体を後ろに反らせて笑い、マリアの首元で結ばれているドレスの紐をつかみ、それをほどこうとする。小さな麻のシャツを着たイエズスは、ふっくらとしていて、花のようにバラ色で、とても愛らしい。

Jesus laughs and plays, kicking His little feet out of the blankets, moving His arms happily in a typical childish style, so beautiful to see. He pushes His feet against His Mummy's stomach, He arches His back leaning His fair head on Her breast, and then throws Himself back and laughs, holding with His hands the laces that tie Mary’s dress to Her neck, endeavouring to open it. He looks most beautiful in His little linen shirt. plump and as rosy as a flower.

マリアは身を屈め、まるで守るかのように揺りかご越しに中を覗き込み、微笑みながら同時に泣いている。その間、子供はしきりに何か言い、幼い子供とは思えない言葉を発する。その中には「ママ」という言葉がはっきりと繰り返されている。子供は泣いているマリアを見て驚いている。小さな手を涙の跡に伸ばし、マリアの顔を軽く叩くと、その手が濡れる。そして、とても優雅に、再び母親の胸に寄りかかり、その乳房にくっつき、手で軽く叩く。

Mary bends down and in that position, looking through the cradle, as if for protection, She smiles and cries at the same time, while the Child prattles, uttering words which are not the words of all little children; among them the word «Mummy» is repeated very clearly. He looks at Her, surprised to see Her crying. He stretch- es one little hand towards the shiny traces of tears and it gets wet while patting Her face. And, very gracefully, He leans once again on His Mother’s breast, He clings to it and pats it with His hand.

「幼い子供とは思えない」とあるのも覚えておいてもらいたい。

〔続き〕

マリアはイエズスの髪にキスをし、抱き上げ、座って服を着せてやる。小さな毛糸の服を着せ、サンダルを履かせる。マリアはイエズスに乳を与え、イエズスは母の良質な乳を貪るように吸う。右の乳房から少ししか出ないと分かると、左の乳房を探す。彼は笑いながらそのようにし、母親を見上げる。そして、バラ色の丸い頬を母の白くて丸い乳房に押し当て、再び母の胸で眠りにつく。

Mary kisses His hair, takes Him up in Her arms, sits down and dresses Him. His little woollen dress has now been put on Him and His sandals have been tied on His feet. She nurses Him and Jesus avidly sucks His Mother’s good milk, and when He feels that only a little is coming from Her right breast, He looks for the left one, laughing while doing so and looking up at His Mother. Then He falls asleep again on Her breast, His rosy round little cheek resting against Her white round breast.

英語,Google翻訳

このような情景に関し、私は前々回、次のように書いたのだった。

ヴァルトルタの作品に関してマリアン・ホーヴァット博士が指摘したのは「幼子イエズスが聖母のドレスの紐を解き、その乳房を露出させる」という描写だった(参照)。そこには、聖母の「白くて丸い乳房」という言葉すらあった。母親が幼い我が子に乳を含ませるのは自然なことだ。しかしそれでも、私はこの表現はあんまりだと思う。〔…〕 ──しかも、これは「聖母」に関する描写なのだ!

しかしその後、全体を眺めていく中で、問題なのは「白くて丸い乳房」ばかりではないと気づいた。この「幼子イエズス」とされているものの様子が変なのである。どうにも気持ち悪いのである。

違和感1

情景の要約
「1歳くらいのイエズス」が「微笑み、小さな手を母親の胸に伸ばす」。次いで「笑い、マリアの首元で結ばれているドレスの紐をつかみ、それをほどこうとする」。乳房が露わになる。「右の乳房」を吸い、「左の乳房」も吸う。彼はこれらを終始嬉し気にする。

私は、これは「1歳くらいの子供」らしくない、と思った。第一に私にそう思わせたのは、彼が「マリアの首元で結ばれているドレスの紐をつかみ、それをほどこうとした」ことである。このようなことをするためには、その紐の「目的」を、その「存在理由」を理解していなければならない。そして、「この紐の結び目をこうすれば、こうなって、こうなる」という予測もできていなければならない。一歳児に可能なことだろうか?

私は、普通の一歳児にはそこまでのことは無理、と思うのである。普通の一歳児は、もちろん母親の乳を求めることはあるだろう。けれども、その動作はきっと単純で、母親の乳房にまっすぐ手を伸ばし、そしてその手は、その辺りをうろうろするだけだろう。やがて母親が気づいてくれる。

しかし、この「Vの幼子イエズス」はそうではない。彼には「母親のドレスの紐をつかみ、それをほどこうとする」ことが可能だったのである。なぜなら、彼は「1歳くらい」でありながら、同時に「幼い子供とは思えない」面もある子供だったからである。

しかし、たとえ「幼子イエズス」が「幼い子供とは思えない」面のある子供だったとしても、「母親の首元のドレスの紐をほどこうとする」などというのは、どうにも「怪し過ぎる」話なのである。

違和感2

彼は、ちと、笑い過ぎ

これは既に書いたも同然である。上で「終始嬉し気にする」と書いたのだから。しかし私は、人はこれにあまり気づかないのではないかと思うので、改めて書いておきたい。

あなたも、今一度、確認してください。↓

彼は、目覚めるや、さっそくのように母の胸に手を伸ばすが、彼はその時「微笑んで」いた。彼が母親のドレスの紐をほどこうとする時、彼は「笑って」いた。彼が母親の右の乳房から左の乳房に移ろうとする時、やはり「笑って」いた。

あなたは、これを妙だと思わないか?
あなたにとって「幼子イエズス様」は、こんなですか?
あなたの心の目に問うてみて欲しい。

私としての結論

母親の乳房に到達するために、直接そこに手を伸ばすばかりでなく、母親のドレスの紐をほどきにかかる、しかも嬉し気にそうするというのは、「一歳児」にふさわしくないし、「幼い子供とは思えない一歳児」にもふさわしくない。それが「よりふさわしい」のは「世の男たち」の方である。

もちろんその場合、文章上、上の「母親」というのを「女」に換えなければならない。しかし、そんなことは問題ではない。ただの文章上のことであり、シナリオ上の「配役」に過ぎないのだから。この情景の本質を理解するためには、つまり悪魔がこの情景に潜ませた真の意味を知るためには、悪魔が決めた「配役」など、三千億光年先まで蹴り飛ばさなければならない。

つまり私は、悪魔は「1歳くらいのイエズス」の "愛らしさ" を頻りに強調することで人の目に分かりづらいものにしているが、実は、仮想「幼子イエズス」と母の情景に「世の男たち」と女性たちの情景を重ねて(レイヤーを重ねるように)私たちに見せているのだと思う。もっと簡単に言えば、仮想「幼子イエズス」に「世の男たち」がやりそうなことをやらせた、ということ。

*

そして、もしあなたがヴァルトルタ作品の中のこの情景を読んで、この真実に気づかなくても、この情景はサブリミナル的に、あなたの心に影響を及ぼすだろう。たとえ無意識的にでも、あなたはその「映像」を見たからである。

マリア・ヴァルトルタの啓示は悪魔由来のものである 15

注)引用文中の〔  〕や強調は私による付加です。
注)私自身の文章の中で時々「あなた」と呼びかけ調で書くことがありますが、これはただ想定上の読者のことです (^^;

天主が人間に何かを負っているかのような言い振り

私は、前回取り上げさせてもらった Bro. James(サレジオ会)は私たちのために良い仕事をしてくれたと思う。彼の文章は今ではすっかり archive.org のキャッシュとしてしか残っていないけれども。復活。vol1pt1,vol1pt2,vol2,vol3,vol4

彼は、彼の代表作、文字数が最も多い「批評:『神人の詩』 - メジュゴリエの福音書」を書いた1988年当時、サレジオ会修道士としてサンフランシスコにいて(参照)、同地の「Saints Peter and Paul Church」に駐在していたそうである(参照)。現在、1988年から38年が経過している。今も健在でおられるのか、どうか。

彼は確かに、良い信仰の感覚を持っていたようである。今回の本題に入る前に、彼が「批評」の冒頭で書いた序文の一節をここに置いておく。

jloughnan.tripod.com (web.archive.org)

汚れなき御母、聖マリア、キリスト信者の助けであるあなた様を、私たちはお愛し申し上げています! あなた様は私たちの母です! この涙の谷で、私たちは嘆き悲しみ、泣きながらあなた様に叫んでいます。どうか私たちをお助け下さい! 『神人の詩』は、全くの偽りで、真実とはかけ離れているにかかわらず、私の兄弟姉妹は、それをあなた様の生涯の歴史、そして私たちの主の生涯の歴史として受け入れています。私たちは自分たちが賢いと思っていました! これらの本を読んだ後、ブルーアーミー(現 The World Apostolate of Fatima)の複数の支部、聖パウロ女子修道会、聖ヨゼフ・ワークショップ、そしてその他多くのカトリック聖品店が、それらの本を販売していると聞いてから、私の心と魂はあなた様に向けられるばかりです! 私の意図は、善行を行うことで知られるカトリック教徒たちによってこのくだらないものが広められていることを示すために、彼らを嘲笑することではありません。かつては「敵がこれをやったのだ!」と言うことができました。〔しかし〕今や私たちの問題は、私たち自身の内部から生じているのです! どうか私たちをお助けください!〔…〕

*

Bro. James の記事からの引用は、前回で一応、終えた筈だった。しかし、ここに一つだけ追加する。

私は本日のこの記事の表題を「天主が人間に何かを負っているかのような言い振り」とした。もしヴァルトルタの『詩』がそのようなものだったら、確かに、Bro. James の言うように、「くだらないもの」と言われるべきだろう。

第3巻  p. 216(archive.org)

315. Jesus' Farewell to the Two Disciples. 内

改訂版

Vのイエズス:「私のために祈ってください。私にはあなた方の祈りが必要です… それは〔私への〕愛撫となり…〔私への〕愛の告白となるでしょう… それは、私が『人類全体が悪魔でできている』と言い出すほどにならないように、私を助けてくれるでしょう。〔…〕

V's Jesus: «Pray for Me. I will need your prayers... They will be caresses... They will be professions of love... They will help Me, that I may not go to the extent of saying: “The whole of Mankind is made of demons”...〔…〕

さようなら、ヨハネ! さよならのキスをして… 泣かないで… もしこの別れがあなたと私にとってどれほど良いことをもたらすかを前もって見ていなかったら、私の体から肉片を引きちぎってでも、私のそばにあなたを置いていたことでしょう。〔…〕」

Goodbye, John! Kiss Me goodbye... Do not weep... I would have kept you with Me, at the cost of tearing bits of flesh off My body, had I not seen all the good that this separation will bring about both for you and for Me.〔…〕»

この章の表題は「315. 二人の弟子との別れ」である。二人の弟子とは「エン・ドルのヨハネ」と「シンティケ」である。前者はつまり、使徒ヨハネではなく、後者は女性である。「地上で会うのはこれが最後」というような悲しげな別れの描写なので(英語、Google翻訳)、主の御受難が間近に迫った時点での別れかと思いきや、そうでもない。この章は全5巻からなる旧版の第3巻にある。

“

私のために祈ってください。私にはあなた方の祈りが必要です。

”

これでは私たちと同じである。

これは本当の「イエズス様」だろうか? そうであるはずがない。イエズス様は「天主」だから、ご自分のために人間の祈りを「必要とする」などということはあり得ない。

“

それ〔あなた方の祈り〕は〔私への〕愛撫となり…〔私への〕愛の告白となるでしょう…

”

また「愛撫」か。まあ、いいとして・・・確かに信者がイエズス様の御為を思って何事かを祈れば、それは嬉しくお思いになるかも知れない。イエズス様にとって「慰め」となるかも知れない。しかしこのことは、やはり「必要」ということとは違う。

イエズス様はゲッセマネの園で弟子たちに「目を覚まして祈りなさい」とお命じになったけれど、これは「私のために祈って欲しい」ということではなかっただろう(語尾を推測形にする必要はないと思われる)。彼は、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。心ははやっていても、肉体は弱いものだ」等とおおせられた(マルコ 14:37~、ルカ 22:46、マタイ 26:36~)。しかしこれは「私のために祈ってください」ということではなかった。これから御自身の御受難に必然的に巻き込まれることになるだろう弟子たちを強めるためためだった。

また、それ以前、彼が御受難の予告をなさったのに対しペトロが「とんでもないことです」と言った時、「サタンよ、退け。あなたの思いは、神のものではなく、人間のものである」とおっしゃったイエズス様である。

要するに、彼の覚悟というものは人間的な弱いものではなく、従って、「私のために祈ってください」などと言い出すようなものではなかったのである。

悪魔はこのように、イエズス様のイメージを「人間的で柔弱」なものに改変しているのである。

そんな彼が、他所では、「人間的な埃が真理の純粋さを汚してしまったのだ」などと、いけしゃあしゃあと言うのである。

“

それ〔あなた方の祈り〕は、私が『人類全体が悪魔でできている』と言い出すほどにならないように、私を助けてくれるでしょう。

”

何なんだ、この「天主」は。呆れるばかり。

しかし、この世には、失礼ながら「分からず屋」も多いようだから、少し説明させてもらうと──

第一には、この「イエズス」は普段は「人類全体が悪魔でできている」とは思っていないが、地上であまりに多くの悪意に出会うので、心乱れるあまり、自分がいつか「人類全体が悪魔でできている」と言い出さないかと不安である、ということである。そのような告白、内面の打ち明けなのである。

そして第二には、「自分がそうならないためには人間の祈りが必要だ、と私は感じている」という、これも彼の告白、内面の打ち明けである。

しかし──混乱するなかれ──そのように告白し、内面を打ち明けている者は、本当はどこにも存在しないのである。何故なら、これら全ては悪魔の「創作」だからである。「幻灯」だからである。

さて、本当のイエズス様はと云えば、「人類全体が悪魔でできていない」と、よくご存知である。否、「よく」も何もありはしない。彼は「天主」として、そんなことは当り前の事としてご存知である。これは「認識」の事である。いかに地上において人間たちの悪意に晒され、心が傷つかれようとも、彼のこの「認識」は変わらない。「感情」の波立ちによって「認識」まで揺らぐなどということは、人間にはあっても「天主」にはない。

“

もしこの別れがあなたと私にとってどれほど良いことをもたらすかを前もって見ていなかったら、私の体から肉片を引きちぎってでも、私のそばにあなたを置いていたことでしょう。

”

「私の体から肉片を引きちぎってでも」とは、何だか気の触れたような言い方である。

これが仮に「愛」と呼び得るとしても、この種の「愛」は良くない。天主様の教える「愛」は「愛着」ではない。しかし、この「イエズス」の言葉は「愛着」を、「執着」を、そしてそれさえ超えたなにか尋常でないもの、「狂気」めいたものさえ感じさせる。

人は、自分が仰ぎ見る誰かがちょっと理解不能なことを言った時、「おかしなことを言う」とは思わずに、「このお方は私の理解が及ばない何か深遠なことを言っているのかも知れない」などと考えがちである。しかしである、天使館などのヴァルトルタ擁護の皆さん、あなた方はここで「イエズス様の内面は測り難い」などと言わずに、この「イエズス」は退けた方がいいと、いい加減気づくべきである。

これ ↓ に巻き込まれるなかれ。

マリア・ディバイン・マーシー(MDM)のことも思い出しておこう。その「イエズス」はこう言ったのである。

わが最愛の娘よ、わが聖心と極めて緊密に結ばれたわが貴重なる支持者達(followers)が私に示してくれている愛を、私はどんなに喜んでいることだろう。私は苦しみの只中にありながらも、その愛によって私をこのように喜ばせてくれるわが忠実なる子供達のことを大いに嬉しく思っている。彼らは、私の軍隊を導くに必要な力を私に与えてくれる光である(They are the light that bring Me the strength needed to lead My army)。 (参照、archive.org)

イエズス様は「あなたたちは世の光である」(マタイ 5:14)とおおせられたが、「MDM のイエズス」はそれに追加して「あなたたちは私にとっても光である」かのように言うのである。これは天主の物の言い方ではない。力と光の源泉である彼が、こんな言い方をするはずがない。

「Vのイエズス」は「私のために祈ってください。私にはあなた方の祈りが必要です」と言い、「MDM のイエズス」は「あなたたちは私にとっても光である」かのように言う。天主が人間に何かを負っている(依存している)かのような言い振りである。しかし、それは真実ではない。彼らは両者とも、天主に関してひどい「嘘」を言う者たちである。

さて、「嘘つき」の親分は誰ですか。 あくま ! \(‘0‘)   正解!

2026年6月20日

マリア・ヴァルトルタの啓示は悪魔由来のものである 14

注)引用文中の〔  〕や強調は私による付加です。
注)私自身の文章の中で時々「あなた」と呼びかけ調で書くことがありますが、これはただ想定上の読者のことです (^^;

「聖性」への意識を低下させ、「罪」というものへ
の意識を「ゆるく」させるヴァルトルタの福音物語

話は前回からの続きである。

ヴァルトルタの『神人の詩』(改題『私に啓示された福音』)の中から、「聖性」への意識を低下させ、「罪」というものへの意識を「ゆるく」させるだろう箇所を拾ってみる。──否、私自身が苦労して拾ったわけではなく、他の調査者たちが既に拾ってくれているものを利用させてもらうだけだが。 f('_')

私はヴァルトルタの「イエズス」が「悪魔」であることを「確信」している。それは「ほぼ確信」ということではなく、また「200%の確信」と妙に力瘤(ちからこぶ)作って強調してみせるでもなく、ただ静かな「100%の確信」であるだけである(今シリーズの4から6を参照のこと)。だから、私自身にとっては、彼が「悪魔」であることを追加的に調べる必要はない。が、それでも、その作品の正体を更に「暴露」、「白日の下に曝す」のがよかろうと思う。

ヴァルトルタの作品を調べた人たちはその中に
「性意識のゆるさ」を観察している

教会がこれまで承認してきた諸々の書物の中に──信心書なり私的啓示なりの中に──「性意識のゆるさ」を感じさせるものはあっただろうか。思い返してみて欲しい。若干感じさせる、何となく感じさせる、という程度のものでもいい、もしあれば、挙げてみて欲しい。

ないだろう。カトリックは、否、それ以前にキリスト教は、罪の入口としての「性」に警戒的だからである。私たちは性的に堕落した街「ソドムとゴモラ」のことも聖書に教えられて知っている。

ヴァルトルタの作品に関してマリアン・ホーヴァット博士が指摘したのは「幼子イエズスが聖母のドレスの紐を解き、その乳房を露出させる」という描写だった(参照)。そこには、聖母の「白くて丸い乳房」という言葉すらあった。母親が幼い我が子に乳を含ませるのは自然なことだ。しかしそれでも、私はこの表現はあんまりだと思う。

昭和の時代、母親たちは公共の場でも自分の胸元を少しだけ開き、幼い我が子に乳を含ませるという、なかなか器用なことをしていたものだ。確か志賀直哉の『網走まで』という作品の中にそのような場面があった。しかし、そこには「白くて丸い乳房」などといったドギツイまでに即物的な描写はなかった。本当に、「白くて丸い乳房」などと書くのは、気の利かなさ、センスのなさに於いて、ほとんど「馬鹿」の世界である。──しかも、これは「聖母」に関する描写なのだ!

ホーヴァット博士はまた、ヴァルトルタの作品の中に「同性愛傾向」を匂わす描写があることも指摘していた。

EWTNへの出演で知られるミッチ・パクワ神父(イエズス会)も、1960年1月6日の聖務省の言葉を引きながら、そこには「いくつかのかなり際どい箇所」があることを指摘し、一例として、ピラトの前での「慎みのない」ダンス(第5巻、73ページ)を挙げている。また、「エヴァへの誘惑は、おもに、蛇が彼女の肉体を官能的に愛撫することによって為された」という「イエズス」の主張(第1巻、30ページ)も指摘している(EWTN)。ヴァルトルタの擁護者たちは「実際、そのような神学説もあるのだ」と反論しているようだが。

そのように、観察眼を持つ人々から見れば、ヴァルトルタの作品の中には「性への意識をゆるく」させるようなものが散見されるようなのだ。

そういう箇所をまとめて列挙してくれている記事があったので、以下、その中から幾らか拾い、訳してみる。

ところで、ヴァルトルタのその作品には二つのバージョンがある。「1980年代刊行の旧版」と「2000年代刊行の改訂版」である。

1980年代刊行の旧版

The Poem of the Man-God

(全5巻)

2000年代刊行の改訂版

The Gospel as Revealed to Me

(全10巻)

で、この作品に対する主要な批判というのは旧版の時代に終わっていて、調査者たちが示す「巻番号」と「ページ番号」は旧版のものであることが多い。今回もそうである。

私は、物好きにも、今回取り上げる調査者の引用が間違っていないか、archive.org(上と同じリンク)で旧版を閲覧して確かめた。間違っていないようである。まあ、それはそうだろう。批判しようとする者が批判対象を間違って引用したのでは、話にならない。

今回の調査者、『神人の詩』の本文に当たり、疑うべき箇所を抽出・列挙したのは、Brother James, S.D.B.(サレジオ会)という人である。その界隈(ヴァルトルタ論争)では知られた人で、ホーヴァット博士の記事の中にもその名があった。ヴァルトルタ擁護者たちにとっては、当然、目の敵である。

彼の代表作は「批評:『神人の詩』 - メジュゴリエの福音書」というものらしい。1988年頃の発表とのこと。もちろん、紙媒体での発表である。「全28ページ」* という記述が散見される。

*「全48ページ」という記述もある。彼は、『詩』が第4巻まで刊行された時点で一度書き、第5巻が刊行された後、また書いたようである。

彼のその批判書からヴァルトルタの「イエズス」の「官能性」を窺わせる箇所を抜き出し、まとめたのが、Fr. John Loughnan* という人である。以下、その記事を訳す。

* ちなみに、「Fr. John Loughnan」という名で検索すると「a former member of the Society of St. Pius X」と出たりする。同一人物なのか?

では、Fr. Loughnan の序文からお読み頂きたい。

archive.org,  archive.org

マリア・ヴァルトルタの『神人の詩』:
その「イエズス」の「官能性」を窺わせる箇所

ブラザー・ジェイムズ(SDB)著

By Br. James, S.D.B.

ジョン・ローナン神父編

Compiled by F. John Loughnan

〔…〕

読者がヴァルトルタの歪曲の現実を理解するのに役立つよう、(これから名前を挙げる方々には申し訳ないが)以下の引用文を読む際には、イエズス、マリア、使徒たちの名前を、大統領やヒラリー・クリントン、そして彼の米国内閣といった公的指導者たちの名前、あるいはオーストラリアの首相ジョン・ハワード、その妻、財務大臣ピーター・コステロ、閣僚ピーター・レイス、マイケル・ウールリッジ博士、ジョン・アンダーソンなどの名前に置き換えてみて下さい。ハワード首相が閣僚たちの唇にキスをし、彼らの「澄んだ目」を見つめ、キスをしながら彼らの(少なくとも、まだ髪が残っている閣僚たちの!)髪に指を通し、例えばピーター・レイスを「恋人の目」で見つめ、彼らを愛撫し(たとえ彼らが「半裸」であっても)、といった様子を想像してみて下さい。ぞっとすると思いませんか?

そのような行為はその文化の男性たちにとってはごく普通のことだ、と言う人もいるでしょう。現代だけでなく、イエズス・キリストが地上に生きておられた時代もそうだったと。しかし、どのような行為がソドムとゴモラに滅亡をもたらしたかをイエズス・キリストはご存知だった、ということも確かです。父親が息子の頬にキスをしたり、友人や親戚の頬にキスをすることには何の問題もない、というのは確かでしょう。しかしそれでも、ヴァルトルタはその一線を越えています。

そう、この「一線を越えている」というところが大事。ここが、いわゆる「目の付け所」というやつ。どういうものが「一線を越えている」と言われるべきか、についての "感覚" が大事。「それが愛情表現であることが確かならば、どんな愛情表現でも構わない」ということにはならないのだから。

(続き)

New Advent FAQ. 3 からの引用

バチカンの公式新聞「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」は、聖務省の調査結果を「ひどく脚色されたイエズスの生涯」と題する記事で要約しました。出版社は翌年、10巻からなる改訂版を出版することで非難を回避しようとしましたが、この作品は再びバチカンの新聞で非難され、「微妙に官能的な雰囲気によって薄められた、幼稚さ、空想、歴史的および解釈上の虚偽の山」と評されました。

「微妙に官能的な雰囲気」。その通り。
その真の書き手(ヴァルトルタではない)は、はっきり書かない。常に、この「微妙さ」というのを使う。「ずるい」のである。「ずるい」の代表は誰ですか。 あくま ! \(‘0‘)  正解 !

(続き)

マリア・ヴァルトルタ著の多巻からなる散文作品『神人の詩』は、イエズス自身によって明らかにされたキリストの生涯を事実に基づいて記述したものとされています。この作品への関心は、メジュゴリエの自称預言者の一人が聖母マリアがこの本の朗読を許可したと主張したことで高まりました。

メジュゴリエの幻視者であるヴィツカ・イヴァンコヴィッチ(Vicka Ivankovic)が、1988年1月27日、アメリカ人弁護士とのインタビューで、「聖母は、イエズス様を知りたい人はマリア・ヴァルトルタの『神人の詩』を読むべきだとおっしゃいました。あの本は真実です」と語ったのです。

リック・サルバト氏はこう問いかけています。「ローマは1949年、1959年、1960年、1985年、そして1993年には二度も、この本を非難しました。人々はこれ以上何を望むのでしょうか?」(Unity Publishing)

ジョン・ローナン神父
2001年3月20日

ローナン神父の序文はこれで終わり。

さて、お待たせしたが、ここから、ヴァルトルタの「イエズス」の「官能性」を窺わせる箇所の列挙が始まる。
文中、「Vのイエズス」とあるのは「ヴァルトルタのイエズス」の意味である。

注)私は引用文中に archive.org で見られる当該ページへのリンクを付け加えておいた。(archive.org)というふうに。
ただし、それらは一時閲覧(Borrow)のみ許されているものなので、アカウントを取ってログインしてからでないと見られない。また、あらかじめログインした上でないと、(archive.org)をクリックしても当該ページに正しく飛ばない。
また、改訂版にもリンクしておいた。これは直接 PDF が開く。リンク元はベトナム語で書かれたサイトである。

第1巻

最初のこの箇所だけ、「官能性」とは関係がない。

第1巻  p. 309(archive.org)

58. Cure of a Blind Man at Capernaum. 内

改訂版

Vのイエズス:「私は釣りに行ったことがないので、あなたに教えてもらいたいのだが。」

V's Jesus: "I have never gone fishing and I expect to be taught by you."

「先生、ご覧下さい。私たちはこうします。私はゼベダイのヤコブの舟のそばに出て、二艘の舟で一緒に正しい地点まで行きます。それから網を下ろします。片方の端を持ちます。先生は、自分もそれを持ちたい、とおっしゃっていましたね。」

"See, Master: this is what we do. I go out beside the boat of James of Zebedee, and we go thus to the right point, both boats together. Then we lower the net. We hold one end. You said You wanted to hold it."

Vのイエズス:「そうです。あなたが私にどうすべきかを教えてくれれば。」

V's Jesus: "Yes, if you tell Me what I have to do."

「先生、どうかお気をつけ下さい。これは私たちの日々の糧なのです。網が揺れでひっくり返らないよう、網から目を離さないで下さい。魚たちは力強く尾を振って自由を求めて抵抗します。そして、もし魚がたくさん集まれば……先生もお分かりになるでしょう。小さな生き物ですが、十匹、百匹、千匹と集まれば、リヴァイアサンのように強くなるのです。」

"Please, Master, be careful, it is our daily bread. Keep an eye on the net, that jolts may not turn it over. The fish fight for their freedom with strong strokes of their tails, and if there is a lot of them. . . You will understand. They are small things, but if ten, one hundred, a thousand get together, they become as strong as Leviathan."

何とも頼りない、心もとない「主」である。しかし、人は意外とこう思うかも知れない。「確かに、いかにイエズス様といえども、御自分が全く未経験な分野に関しては、こんな感じだったかも知れない」と。しかし私は、ヴァルトルタに書かせているのは「悪魔」だと確信しているので、福音書の中の漁にまつわる場面でイエズス様が常にどんなに力強かったかを思い出すだけだ。悪魔はイエズス様のイメージを弱く頼りなく改変しようとしている。

*

さて、ここから「官能的」な箇所のピックアップが始まる。読者に素材に直接当たってもらうのも悪くないが、一言、言わせてもらう。
一言で「愛」と言っても色々ある。家族愛、友情、隣人愛、人類愛、自己愛、性愛など。古代ギリシャ哲学で言えば、アガペー、エロス、フィリアとか。特にテツガク的になる必要はないけれど、そのような分類があることを念頭に置いて、「見分ける」ことができなければならない。たった一つ「愛」という語だけを持ってボ~~ッと立っているなら、私たちは足を掬われることになるだろう。読者においては、以下に広がる「愛」の情景が一体どのような種類の「愛」の情景なのか、考えてみて欲しい。(「エロスなんでないの?」というぐらいには、あなたにも感じられるはずだ。)

これらの情景が「イエズスと弟子たち」のことだと吹き込まれていなければ、人は違和感を感じるはずである。しかしヴァルトルタ信者は、そのようにしっかり吹き込まれているので、要するに「目をくらまされ」て、大して違和感を感じないのに違いない。

ヴァルトルタ信者ばかりでなく、カトリック信者は「愛」に弱いところがある。「愛」と言われればイチコロなところがある。
悪魔に騙されないようにね!

第1巻  p. 311(archive.org)

58. Cure of a Blind Man at Capernaum. 内

改訂版

ペテロはイエズスの手を取り、その手に口づけをする。ペテロは深く感動する。

Peter takes Jesus' hand and kisses it. He is deeply moved.

アンデレ〔ペトロの兄弟〕はイエズスを見つめるが、イエズスの手を取る勇気はなかった。しかしイエズスは、アンデレの髪を撫でながら (caressing)「私はあなたのこともとても愛している」と言う。

Andrew looks, but does not dare take Jesus' hand, but Jesus caressing his hair with His hand says: "I love you very much, too."

「愛している」はいいとしよう。しかし、「髪を撫でながら『愛している』と言う」となると、話は違ってくる。それは人に「恋人たち」を連想させる。(あなたは、私が特に意地悪な見方をしていると思うか?)
このような身体接触(撫でる)を伴いながらの「愛してます」は、イエズス様にふさわしいだろうか。私たちは "感覚" を鋭くして、よく考えてみなければならない。

第1巻  p. 311(archive.org)

58. Cure of a Blind Man at Capernaum. 内

改訂版

「ああ、主よ! お待たせしてしまいましたか?」。ヨハネは恋人のような目でイエズスを見つめた。

"Oh! Master! Have I kept You waiting?" John looks at Jesus with the eyes of a lover.

先ほどと同じように言うことができる。「見つめる」のはいいとしよう。しかし、「恋人のような目で見つめる」となると、話は違ってくる。

私たちは福音書の中に使徒ヨハネに関して次のようにあるのを知っている。

弟子の一人が、イエズスの胸に寄り添って食事の席に着いていた。その弟子をイエズスは愛しておられた。(ヨハネ 13:23)

最後の晩餐のシーンである。この箇所は人々の想像力を、わりあい刺激するようだ。特に、「胸に寄り添って」とあるからだ。悪魔は「利用価値がある」と見るだろう。

確かに、ヨハネはイエズス様に特に愛されていたかも知れない。また、信頼されていたことは確かだ。十字架上のイエズス様からマリア様のことを託されたのだから。しかしそれでも、福音書の中に「恋人のような目」は確認されない。

しかし、それでも、あなたはこれを「四福音書が書いていない主の生涯の脱落部分」と見るのだろうか。実際、それは「恋人のような目」だったのかも知れない、その可能性があると? まあ、「可能性」について考えるのは自由だ。しかし、もう少し警戒したほうがいいのではあるまいか。読み進めよう。

第1巻  p. 365(archive.org)

70. Jeus Meets John of Zebedee at Gethsemane. 内

改訂版

イエズスが詩篇を唱え、ヨハネも一緒に祈るが、彼の声は次第に小さくなり、イエズスの膝に頭を乗せたまま眠ってしまう。イエズスは微笑み、眠っている弟子の肩に自分のマントを広げ、心の中で祈り続ける。

Jesus says some psalms and John prays with Him, but his voice dies down and he falls asleep with his head on Jesus' lap. Jesus smiles and stretches His mantle on the shoulders of the sleeping disciple and continues to pray mentally."

人はこれを「美しい愛の情景」と見るだろう、まず間違いなく。
しかし、もしこれが悪魔の作だとしたら?
だって、書けるんですよ、悪魔は。この程度のものは。
人間のシナリオライターだって書けますよ。
このように、醒めた目で見ることが大事。
簡単に感心しちゃ駄目。吸い込まれちゃ駄目。

第1巻  p. 673(archive.org)

124. The «Veiled Woman» at the «Clear Water». 内

改訂版

Vのイエズス:「あなたはそのために苦しみましたが、真実を語りました。私はあなたを喜んでいます。次回からは、善い人であるためにそれほど苦労しなくて済みます。大切なのは最初の一歩です。よくやった、ユダ!」。そして、イエズスはユダを愛撫する (caresses) 。

V's Jesus: "You suffered for that, but you have told the truth. I am telling you that I am pleased with you. The next time it will not cost you so much to be good. It is the first step that matters. Well done Judas!" and Jesus caresses him.

「愛撫」という言葉が特に性的なイメージを喚起するというので、あなたは私を非難するだろうか。「別の言葉もあるのに」と。
では、「愛撫する」ではなく「撫でる」としますか?
しかし、そこにどれほどの違いがありますか?

第2巻

第2巻  p. 78(archive.org)

161. The Grandson of Eli, a Pharisee of Capernaum, is Cured. 内

改訂版

Vのヨハネ:「主よ、あなたはなんと喉が渇いておられたことでしょう! 愚かにも、私は水を汲みに行きませんでした。」

V's John: "How thirsty You were, my Master! I foolishly, did not get any water."

Vのイエズス:「ヨハネ、もう大丈夫だ。すべては終わったのだ」。そして、イエズスはヨハネを撫でる (caresses) 。

V's Jesus: "It does not matter, John. It is all over" and He caresses him.

「撫でる」にしてみました。何が変わるのか。

第2巻  p. 94(archive.org)

165. The Election of the Twelve Apostles. 内

改訂版

イエズスは微笑み、森で摘んだ葉で作った素朴な敷き物の上に座る。イエズスは身をかがめてヨハネの頬にキスする。ヨハネは目を開け、イエズスを見て呆然とする。彼は起き上がり、「私が必要ですか? 私はここにいます」と言う。

Jesus smiles, sits on the rustic mattress made of foliage picked in the wood. He bends and kisses the cheek of John, who opens his eyes and is dumbfounded at seeing Jesus. He sits up and says: "Do you need me? Here I am."

Vのイエズス:「いいえ。他の人たちと同じようにあなたを起こしたのですが、あなたは母親だと思ったようですね。だから私は、母親がするように、あなたにキスしたのです。」

V's Jesus: "No. I woke you up as I did the others, but you thought it was your mother. So I kissed you, as mothers do."

きもいイエズス。この一言である。
この「イエズス」は「キス好き」のようなので気持ち悪いし、更にここでは「母親のようにキスした」などと言うのだからなお気持ち悪い。

そうではないか? 自分の身に置き換えて考えてみて欲しい。
あなたが男親だったとして、なかなか起きない子供が寝ぼけて「ママー」と言った場合、「ママのようにキスする」ことを思いつくだろうか? 私なら、その子のことを心から愛していたとしても、また、その時のその子の様子をとても可愛らしく思ったとしても、そんなことをするのは嫌だ。私は男なのに「ママのようにキスする」なんて。そんなことは思いつきもしないし、試しにやってみることさえ嫌だ。私は女形(おやま)ではないんだぞ。

いや、これは笑い話ではない。この「イエズス」は変である。そのように性差の柵を気軽に乗り越えるのも変だし、そもそもそんなこと(母親のようにキス)をするのは無意味である。愛の戯れの中で半ば盲目になった人だけがそこに意味を感じるかも知れない、という話だ。

さて、そして、次の箇所は上の箇所の続きである。「イエズス」から「母親がするようなキス」をされた「ヨハネ」はどうなったか。

第2巻  p. 94(archive.org)

165. The Election of the Twelve Apostles. 内

改訂版

下着姿のヨハネは、チュニックとマントを寝具代わりにしていたため、半裸のままイエズスの首に抱きつき、イエズスの肩と頬の間に頭を乗せて言った。「ああ! あなたは母以上の存在です! 私はあなたのために母を捨てましたが、母のためにあなたを捨てるつもりはありません! 母は私をこの世に生み、あなたは私を天へと運んでくださるのです。」

John, half naked in his undertunic, because he used his tunic and mantle as bed covers, clasps Jesus' neck and lays his head between Jesus' shoulder and cheek saying: "Oh! You are more than a mother! I left her for You, but I would not leave You for her! She bore me to the earth. You are bearing me to Heaven."

いよいよ危なくなって来たぞ。

次の箇所も、少し中略が入るけれど、話としては上の続きである。「下着姿で半裸のヨハネ」と「イエズス」はどうなったか。

第2巻  p. 95(archive.org)

165. The Election of the Twelve Apostles. 内

改訂版

〔…〕

ヨハネは愛に燃え、息を切らしながら微笑み、涙を流し、まるで情熱に疲れ果てたかのようにイエズスの胸に寄りかかっている。イエズスは愛に燃えながら彼を愛撫する。

John smiles and weeps, panting, inflamed by love, relaxing on Jesus' chest, as if he were exhausted by his ardour. Jesus caresses him, burning with love Himself.

〔…〕

Vのイエズス:「心配するな、ヨハネ。お前と『愛』の結婚は誰にも知られない。着替えて来なさい。出かけなければならない。」

V's Jesus: "Do not worry, John. No one will be aware of your wedding with the Love. Get dressed, come. We must leave."

あなたは、この作品に言われるままに、これは「イエズス」と「ヨハネ」の場面を描いたものと思い、読んだかも知れない。が、一度その思いを外して見直してみて欲しい。それは「先入観」「思い込み」というやつかも知れないから。

私に言わせれば、これは「ポルノチック」でありかねない描写である。
「愛に燃え、息を切らして」いるのだから。
「愛に燃えながら、愛撫する」のだから。
「聖なる物語」を描いたはずのものとしては、全く異常である。
それとも、人はこれを「聖なる情交」とでも呼ばなければならないのだろうか?(語義矛盾だと思うが。)

私の考えでは、イエズス様は「神」だが、「人」として見た場合、彼は「霊の人」であって「肉の人」ではない、「体の人」ではない。だから、仮に「愛に燃える」ことはあったとしても(だが、私は福音書の中にその表現に見合う場面を知らない)、愛に燃えながら相手を「愛撫する」なんてことは決してない。

悪魔はこのように、人間を馬鹿にしているのである。人間というものが簡単に「先入観」にとらわれることを知って、ここでも気づかないだろうと踏んで、文章にイタズラして、あり得ない情景を創作して、クスクス笑いをしているのである。そして、その通りに、あなたは気づかないというわけか?

「イエズス」と「ヨハネ」のこの一件を含む章、途中まで。英語
「イエズス」の「私は母親がするようにあなたにキスした」という言葉をGoogle翻訳は女言葉に訳した。AIも理解できないってさ。

次の箇所も上からの続きである。「ヨハネ」との愛熱に燃えたひとときを終えた「イエズス」は、外に出て、群衆の方に向かう。群衆の中にイスカリオテのユダがいる。

第2巻  p. 95(archive.org)

165. The Election of the Twelve Apostles. 内

改訂版

イスカリオテは涙を浮かべながら、はにかんだ笑顔でイエズスを見つめる。イエズスは通りすがりに彼を優しく撫でる。

Iscariot looks at Jesus with a shy smile, marked by tears. Jesus caresses him passing by.

「通りすがりに撫でる」なんていやらしい。まるで、通りすがりに女子社員のお尻を撫でる昭和の助平上司のようではないか。

とにかく「身体接触」が好きなのである。ベタベタと。

第2巻  p. 265(archive.org)

192. From Esdraelon to Engannim Stopping at Megiddo. 内

改訂版

イエズスは腕でヤコブの肩を抱き、彼を自分の方に引き寄せる。

Jesus embraces James' shoulders with His arm to draw him closer to Himself.

福音書の中に、主のこのような動作は見受けられない。

ヴァルトルタの作品の真の書き手(悪魔)は「新しいイエズスのイメージ」を作ったのである。「新しい福音書」を作ったのである。しかし、それは「新しい聖福音書(New Holy Bible」ではない。「新しい、不浄な福音書(New Unholy Bible)」である。

どのような仕方でか?
とにかく「愛」でさえあればどんなものも美しいかのように描くことによって! 「愛の戯れ」は「愛」であるからどんなものも美しく且つ無意味ではないかのように描くことによって!

しかし、そうではない。ある種の「愛の戯れ」は無意味である。
「母親がするように、あなたにキスした」はその代表格である。

第2巻  p. 642(archive.org)

256. Jesus Goes up Mount Carmel with His Cousin James. 内

改訂版

それからイエズスは従兄弟を自分の方に引き寄せ、ヤコブはヨハネのいつもの姿勢をとる。〔すなわち〕頭をイエズスの胸の上部に預け、片腕をだらりと垂らし、もう一方の手を従兄弟〔イエズス〕の手の中に置く。夕暮れ時、茂みの中で鳥たちがけたたましくさえずり、遠くで牛の鈴の音が遠ざかり、消え、木々の梢をそよ風が優しく揺らめき、日中の暑さの後には涼しく爽やかで、夜には露が降りることを予感させる。

Then Jesus draws His cousin towards Himself and James takes John's habitual posture: his head resting on the upper part of Jesus' chest, one arm hanging loose, the other hand in that of his Cousin. They remain thus, while in the dusk, birds twitter loudly in the thicket, the tinkle of cattle-bells recedes and fades in the distance, and a light breeze rustles caressingly in the tree tops, cool and reviving after the heat of the day, and promising dew in the night.

ヴァルトルタの「イエズス」は「ヨハネ」だけでは飽き足らず、「ヤコブ」にも「ヨハネ」と同じポーズを取らせる。
後半は、美文である。笑わせる。天国はこんな文章表現にかかずらっていない。

第2巻  p. 650(archive.org)

257. Jesus Reveals to James of Alphaeus His Future Apostolic Mission. 内

改訂版

(ヤコブはイエズスの胸に顔をうずめて泣いている。)

Vのイエズス:「さあ、こうしてあなたに口づけをしよう。こうすればあなたは、人間としての私の運命 (My fate as Man) の重荷を忘れることができる。あなたが頼んだように、適切な時に、あなたはこれらすべてを思い出すだろう。イスラエルの民に私の言葉を繰り返さなければならないあなたの唇に口づけをしよう」。二人は長い間抱き合ったままで、ヤコブは神の口づけの喜びの中でうとうとと眠りに落ちたようである。

V's James weeps on Jesus' chest. V's Jesus: "Come I will kiss you thus, to help you forget the burden of My fate as Man. You will remember all this at the right moment, as you asked. I kiss your lips that will have to repeat My words to the people of Israel." They remain embraced for a long time and James seems to doze off in the joy of God's kisses.

悲しみを忘れさせるために口づけ!
やがてその唇で宣教しなければならない弟子の唇に長い口づけ!

笑えるやら、馬鹿馬鹿しいやら。
こんなこと、イエズス様がするはずがないだろう!

ところで、Bro. James は「人間としての私の運命(My fate as Man)」というところに下線を引いている。特に注釈を入れていないが、何故なのか?
それはたぶん、十字架上で終わる主の御受難は「人間としての運命」と言われるべきではないからだろう。
また、「fate」という言葉も問題なのだろう。同じ「運命」と訳される「destiny」という言葉には「神意」というニュアンスがあるのに対し、「fate」という言葉には「事の成り行き」というニュアンスがあるらしいから。

第2巻  p. 694(archive.org)

264. Intructions to the Apostles at the Beginning of Their Apostolate. 内

改訂版

Vのイエズス:「もし誰かがあなたの外套(マント)を奪おうとするなら、下着(チュニック)をも与えなさい。あなたが柔和で富に執着しないというところから結果するのであれば、たとえ完全に裸 (completely nude) のままであっても、主の天使たちを惑わすことも、神の限りない純潔を辱めることもないだろう。」

V's Jesus: "If anyone should rob you of your mantle, give him also your tunic. If you should remain completely nude because of your mildness and detachment from riches, you will not scandalise the angels of the Lord or the infinite chastity of God."

当時、その地方で、しばしば強盗が出たならば、人は確かに、身ぐるみ剥がされて「完全に裸 (completely nude) 」になることも想定しなければならなかったかも知れない。しばしば「下着」と訳される「チュニック」(筒状の長い衣服)の下に「腰布」など何も着けていなければ。

しかし、今まで「Vのイエズス」の様子を見てきた私は、上のような当時の状況を考えることは彼に対して親切すぎることだと思う。「キス」や「撫でる」ことが好きな彼であれば、ヨハネの「下着姿」や「半裸」を書いた彼であれば、「人の完全な裸」を書くことも自然である。ただ「彼らしい」というだけである。

第3巻

第3巻  p. 30(archive.org)

279. The Seventy-Two Disciples Report to Jesus What They Have Done. 内

改訂版

Vのイエズス:「私は彼らにどんな名前をつけようか。使徒たち、弟子たち、信者は『クリスチャン』と呼ばれることになるだろう。では、彼らは? 彼らはどんな名で呼ばれるだろうか? それは天国だけが知っている。地上で彼らが受ける報いは何だろうか? 私の口づけ、私の声、私の体の温もりだ。」

V's Jesus: "What name shall I give them? You apostles, you disciples, the believers will be called 'Christians'. And those? What name will they have? A name known only in Heaven. What reward will they receive from the earth? My kiss. My voice, the warmth of My body."

アチャ~(/o\)   こんなこと言っちゃったよ、このしと!

私は前後関係を読んでいないから(後で読むかも知れない)、この「イエズス」がどういう意味でこれを言ったのか知らない。しかし、果たして、前後関係でこの「イエズス」のこのような発言を擁護できるものだろうか?

私は、できないだろうと思う。どのような前後関係であろうと、どのような文脈の中でであろうと、地上のある種の人々にとっては「私の口づけ、私の声、私の体の温もり」が「報い」であるなどとは! 全てのカトリック信者が「腰を抜かす」べきである。

もう一度言う。イエズス様は「神」だが、人としては「霊の人」であって「肉の人」「体の人」ではないのである。「口づけ、声、体の温もり」などに重きを置くはずがない。解答は常に同じだ。こんな転倒したこと、逆さまのことを言う「イエズス」は「偽イエズス」でしかあり得ない!

*

だが、もう少し落ち着いて考えてみようか。私は自分に「どうどう」と言おう。

私は今、前後関係を読んだ。
章全体。英語,Google翻訳
問題の箇所は章の最後にある。

Bro. James は「イエズス」の言葉の最後の方を省略している。
省略しないで書くと、次のようになる。

私は彼らにどんな名前をつけようか。使徒たち、弟子たち、信者は「クリスチャン」と呼ばれることになるだろう。では、彼らは? 彼らはどんな名で呼ばれるだろうか? それは天国だけが知っている。地上で彼らが受ける報いは何だろうか? 私の口づけ、私の声、私の体の温もり。私のすべて。私、彼ら。彼ら、私。完全な交わり... 行きなさい。私はここに留まり、私のことを完全な仕方で知り且つ愛するようになるだろう未来の彼らについて思い巡らし、わが魂の喜びとしよう。あなた方に平和あれ。

And those? What name will they have? A name known only in Heaven. What reward will they receive from the earth? My kiss, My voice, the warmth of My body. All Myself. I, they. They, I. Utter communion... Go. I will stay to delight My spirit in the contemplation of those who in future will know and love Me in an absolute manner. Peace be with you.

「私、彼ら。彼ら、私」だって。彼は舌がレロレロして、うまく言えなかったのだろうか。

彼は、その名はまだ知られていない(天国だけが知っている)ところの、やがて「地上で」報いを受けることになるだろう或る人々について言っている。「地上で」というのは、おそらくは「主の再臨後の地上で」ということだろう。では、その人々も「クリスチャン」と呼ばれるのではないかと思われるが、それとは別に語られている。その人々は、落ち着いて「クリスチャン」と呼ばれる暇(いとま)もないないほどギリギリに、主の再臨の直前になってから回心して「滑り込みセーフ」になるような人々であろうか。(読者の中には「144,000人」というのを思い浮かべた人もあるかも知れない。)

その人々は、再臨の主と会った時、主の「声」を聞き、主に「口づけ」され、主の「体の温もり」を感じるという「報い」を得るのだそうだ。「Vのイエズス」はそのようなことを言っている。

「声」「口づけ」「体の温もり」、この三つは、再臨の主に一度「ハグ」されただけで叶うだろう。

しかし、私はなぜ「Vのイエズス」にこんなに親切に考えてあげているのだろう。私たちの人生では「最初に受けた印象、直感的に受けた印象が、結局、一番正しかった」ということがよくある。私は「アチャ~(/o\) 」を撤回するつもりなどない。

*

「終末」との絡みで語られることが多いだろう救いの情景として私の脳裡にまず真っ先に浮かぶのは「東から西から」「宴」というものである。

あなたがたに言っておく。多くの人々が東からも西からも来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席につくが、国の子らは外の闇に投げ出されるだろう。(マタイ 8:11)

あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分だけが外に投げ出されるのを知る。そこには嘆きと歯ぎしりがある。そして、人々が東から西から、北から南から来て、神の国で宴会の席につくであろう。(ルカ 13:28-29)

「神の国の宴会」は、もちろん幸福なものだろう。しかしそれは、必ずこのような非常に厳しい調子をもって予告されている。

ところが「Vのイエズス」はと云えば、この「神の国の宴会」に「私の口づけ、私の声、私の体の温もり」という、甘い、そして「甘い」では済まない気色の悪いものを持ち込もうとしている。

*

あなたは、それでも、この「イエズス」の言葉を好意的に解釈しようとするだろうか。この「イエズス」を弁護しようとするだろうか。否、そんなことはやめて、私たちがこれまで見てきたものを振り返り、この「イエズス」がどんなに「口づけ」や「体の温もり」が好きらしいかを思い出すべきだ。

この「イエズス」は「肉体の官能に好意的なイエズス」なのである。つまり、本当のイエズス様などでは決してないということだ。

*

Bro. James の「抽出・列挙」はまだ続くが、私はこの辺でやめようと思う。もう十分だろう。

*

ローナン神父のこの記事は、最後に校正者(ローナン神父)と原筆者(Bro. James)のやり取りを記して終わっている。
Bro. James のこの論考は1988年頃のものだから、このやり取りはEメールによるものではあり得ない。手紙の交換か。

この批評の校正者
「もし私があなたのためにこれを校正すると約束していなかったら、読むのをやめてしまっていたでしょう。胃の中にあるものを吐き出さずに済むか分かりません。非常に不快です! 極めて冒涜的な内容です。多くの人がこれを信じているなんて恐ろしい。ヴァルトルタのイエズスは同性愛者です!」

ジェイムズ修道士(サレジオ会)
「第5巻が出版され次第、また批評します。 『神人の詩』はあまりにも悪魔的で、主イエズスからの特別な恵みがなければ、ヴァルトルタのイエズスによる一見無害な言葉に囚われてしまうでしょう。しかし、それらの言葉には、私たちの唯一にして聖であるカトリック教会の教えに反する嘘と異端が隠されています。『地獄の門も、私と私の教会に打ち勝つことはできない!』」

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私自身は、今シリーズ記事で、はっきり「同性愛」と書かなかった。「ホーヴァット博士はヴァルトルタの作品の中に『同性愛傾向』を匂わす描写があることを指摘していた」という程度に書いただけである。と云うのは、もしヴァルトルタ擁護者たちの中に、失礼ながら、心が幼い人がいたら、あまりはっきりと「同性愛」と書くと、つい反発が先に立ってしまい、物事を冷静に見直すことができなくなってしまうかも知れないから。

しかし、私は本当は思っている。悪魔はヴァルトルタの『詩』に同性愛の香を、一見わかりづらい仕方で、全体的に振りかけたのだと。

同性愛は間違いなく悪魔の好むところである。
神は人類を創られた時(創世記)、「男」と「女」を創られた。それは人類創造に於いて最も根幹をなすものだった。はっきりしたものであろうと仄めかしであろうと、悪魔が同性愛を推進する時、それは神への最も深い攻撃であり侮辱である。

それを悪魔はヴァルトルタの作品の中でこそっとやっているわけである。

*

実は、私は翻訳を省略したが、ローナン神父は記事の冒頭に「マテオ神父」という人の短い言葉を引いていた。短いのはローナン神父が抜粋引用したからである。私は元の記事を発見したので、ここにもう少し長く引用しておく。

「マテオ神父」はカナダの Catholic Information Network (CIN) の「Ask Father」という人気の質疑応答のコーナーを長らく担当していた神父様で、「マテオ神父」というのはペンネームだそうである。1996年7月18日に御帰天。

彼のこの言葉は信徒からの「マリア・ヴァルトルタの『神人の詩』についてどう思いますか?」という問いに答えたもの。彼は以前受けた同様の質問に対して自分がした答えをここに再び繰り返す形でこれに答えている(おそらく、回答の前半で)ようだ。

この神父様は、一部で知られていたとはいえ、特に有名な人ではない。それはローナン神父や Bro. James だってそうだ。天使館が「著作をめぐる証言」で挙げていた多士済々と比べれば、まあ、格下と言っていいかも知れない。しかし、世間的な「格」が何だろう。「霊的識別」というなかなか微妙で困難な問題に関しては、世間的な地位や評判は全く当てにならない。市井の目立たない所にいる司祭だって、いい目を持っている人はいるだろう。「マテオ神父」はその中の一人である、と私は思う。

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June 10, 1993 - Poem of the Man-God

マテオ神父アーカイブ、1993年6月10日、『神人の詩』

〔…〕

親愛なるマイク、

私は、1992年2月19日、ジェフ・スティーブンスにこう書きました。

マリア・ヴァルトルタとその著書について『カトリック定期刊行物ガイド』は沈黙しています。私は1948年から1991年までの巻を読みました。ある批評家がこの本に対する敵対的な引用を28ページにわたってまとめたものを目にしました。彼は神学者ではないので、引用の正確性は確認していません。しかし、もし引用が正確であれば、この本は放っておくべきでしょう。これは病んだ女性の作品です [管理人注1] 。彼女の「キリスト」「マリア」「使徒たち」は、私たちの聖書や典礼とはかけ離れています [管理人注2] 。私たちは聖書に記された神の言葉を学び、それを広めるために、やるべきことが山ほどあります。時間をそのことに使いましょう。

私はむしろ、御聖体の前で聖書を手にし、読み、主の霊的な御言葉が真に意味しているところを示してくださるよう、主に祈り求めたいと思います。28ページに及ぶ引用文を読んだ後、本当に心がざわつきました。ヴァルトルタさんのことが悲しくてなりません。彼女が無事であることを願っています。彼女は1961年に亡くなりました。

***

ある人が私との約束をキャンセルしたおかげで、再び図書館に行くことができました。ヴァルトルタさんの『詩』が1959年12月4日に禁書目録に掲載されたことを知りました。現在は禁書目録は存在しないため、それを読んでも教会法上の罰則はありませんが、それが禁書とされた理由は今もなお残っていると思われます。訓練されていない読者にとっては、霊的に有害となる可能性があります。

[管理人注1]   この神父様は好もしい神父様だけれども、こういう言い方には気をつけなければならない。「病んだ」と言う時、それは普通、医学的なことを意味する。しかし、ヴァルトルタが医学的に「病んだ」人だったのかどうか、確実なことは分かっていない。

[管理人注2]  「聖書」ばかりでなく「典礼」ともかけ離れている? Bro. James はそういう箇所を拾っていたか? 私は見落としたのか?
そういえば、サンドラ・ミゼールさんが「そのイエズスは、使徒たちに洗礼を授けた時、使徒たちに口づけした」というようなことを書いていた(参照、キャッシュ)。私はまた『詩』の本文を調べなければならないのか?


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