「聖性」への意識を低下させ、「罪」というものへ
の意識を「ゆるく」させるヴァルトルタの福音物語
話は前回からの続きである。
ヴァルトルタの『神人の詩』(改題『私に啓示された福音』)の中から、「聖性」への意識を低下させ、「罪」というものへの意識を「ゆるく」させるだろう箇所を拾ってみる。──否、私自身が苦労して拾ったわけではなく、他の調査者たちが既に拾ってくれているものを利用させてもらうだけだが。 f('_')
私はヴァルトルタの「イエズス」が「悪魔」であることを「確信」している。それは「ほぼ確信」ということではなく、また「200%の確信」と妙に力瘤(ちからこぶ)作って強調してみせるでもなく、ただ静かな「100%の確信」であるだけである(今シリーズの4から6を参照のこと)。だから、私自身にとっては、彼が「悪魔」であることを追加的に調べる必要はない。が、それでも、その作品の正体を更に「暴露」、「白日の下に曝す」のがよかろうと思う。
ヴァルトルタの作品を調べた人たちはその中に
「性意識のゆるさ」を観察している
教会がこれまで承認してきた諸々の書物の中に──信心書なり私的啓示なりの中に──「性意識のゆるさ」を感じさせるものはあっただろうか。思い返してみて欲しい。若干感じさせる、何となく感じさせる、という程度のものでもいい、もしあれば、挙げてみて欲しい。
ないだろう。カトリックは、否、それ以前にキリスト教は、罪の入口としての「性」に警戒的だからである。私たちは性的に堕落した街「ソドムとゴモラ」のことも聖書に教えられて知っている。
ヴァルトルタの作品に関してマリアン・ホーヴァット博士が指摘したのは「幼子イエズスが聖母のドレスの紐を解き、その乳房を露出させる」という描写だった(参照)。そこには、聖母の「白くて丸い乳房」という言葉すらあった。母親が幼い我が子に乳を含ませるのは自然なことだ。しかしそれでも、私はこの表現はあんまりだと思う。
昭和の時代、母親たちは公共の場でも自分の胸元を少しだけ開き、幼い我が子に乳を含ませるという、なかなか器用なことをしていたものだ。確か志賀直哉の『網走まで』という作品の中にそのような場面があった。しかし、そこには「白くて丸い乳房」などといったドギツイまでに即物的な描写はなかった。本当に、「白くて丸い乳房」などと書くのは、気の利かなさ、センスのなさに於いて、ほとんど「馬鹿」の世界である。──しかも、これは「聖母」に関する描写なのだ!
ホーヴァット博士はまた、ヴァルトルタの作品の中に「同性愛傾向」を匂わす描写があることも指摘していた。
EWTNへの出演で知られるミッチ・パクワ神父(イエズス会)も、1960年1月6日の聖務省の言葉を引きながら、そこには「いくつかのかなり際どい箇所」があることを指摘し、一例として、ピラトの前での「慎みのない」ダンス(第5巻、73ページ)を挙げている。また、「エヴァへの誘惑は、おもに、蛇が彼女の肉体を官能的に愛撫することによって為された」という「イエズス」の主張(第1巻、30ページ)も指摘している(EWTN)。ヴァルトルタの擁護者たちは「実際、そのような神学説もあるのだ」と反論しているようだが。
そのように、観察眼を持つ人々から見れば、ヴァルトルタの作品の中には「性への意識をゆるく」させるようなものが散見されるようなのだ。
そういう箇所をまとめて列挙してくれている記事があったので、以下、その中から幾らか拾い、訳してみる。
ところで、ヴァルトルタのその作品には二つのバージョンがある。「1980年代刊行の旧版」と「2000年代刊行の改訂版」である。
|
1980年代刊行の旧版 (全5巻) |
![]() 2000年代刊行の改訂版 (全10巻) |
で、この作品に対する主要な批判というのは旧版の時代に終わっていて、調査者たちが示す「巻番号」と「ページ番号」は旧版のものであることが多い。今回もそうである。
私は、物好きにも、今回取り上げる調査者の引用が間違っていないか、archive.org(上と同じリンク)で旧版を閲覧して確かめた。間違っていないようである。まあ、それはそうだろう。批判しようとする者が批判対象を間違って引用したのでは、話にならない。
今回の調査者、『神人の詩』の本文に当たり、疑うべき箇所を抽出・列挙したのは、Brother James, S.D.B.(サレジオ会)という人である。その界隈(ヴァルトルタ論争)では知られた人で、ホーヴァット博士の記事の中にもその名があった。ヴァルトルタ擁護者たちにとっては、当然、目の敵である。
彼の代表作は「批評:『神人の詩』 - メジュゴリエの福音書」というものらしい。1988年頃の発表とのこと。もちろん、紙媒体での発表である。「全28ページ」* という記述が散見される。
*「全48ページ」という記述もある。彼は、『詩』が第4巻まで刊行された時点で一度書き、第5巻が刊行された後、また書いたようである。
彼のその批判書からヴァルトルタの「イエズス」の「官能性」を窺わせる箇所を抜き出し、まとめたのが、Fr. John Loughnan* という人である。以下、その記事を訳す。
* ちなみに、「Fr. John Loughnan」という名で検索すると「a former member of the Society of St. Pius X」と出たりする。同一人物なのか?
では、Fr. Loughnan の序文からお読み頂きたい。
マリア・ヴァルトルタの『神人の詩』:
その「イエズス」の「官能性」を窺わせる箇所
ブラザー・ジェイムズ(SDB)著
By Br. James, S.D.B.
ジョン・ローナン神父編
Compiled by F. John Loughnan
〔…〕
読者がヴァルトルタの歪曲の現実を理解するのに役立つよう、(これから名前を挙げる方々には申し訳ないが)以下の引用文を読む際には、イエズス、マリア、使徒たちの名前を、大統領やヒラリー・クリントン、そして彼の米国内閣といった公的指導者たちの名前、あるいはオーストラリアの首相ジョン・ハワード、その妻、財務大臣ピーター・コステロ、閣僚ピーター・レイス、マイケル・ウールリッジ博士、ジョン・アンダーソンなどの名前に置き換えてみて下さい。ハワード首相が閣僚たちの唇にキスをし、彼らの「澄んだ目」を見つめ、キスをしながら彼らの(少なくとも、まだ髪が残っている閣僚たちの!)髪に指を通し、例えばピーター・レイスを「恋人の目」で見つめ、彼らを愛撫し(たとえ彼らが「半裸」であっても)、といった様子を想像してみて下さい。ぞっとすると思いませんか?
そのような行為はその文化の男性たちにとってはごく普通のことだ、と言う人もいるでしょう。現代だけでなく、イエズス・キリストが地上に生きておられた時代もそうだったと。しかし、どのような行為がソドムとゴモラに滅亡をもたらしたかをイエズス・キリストはご存知だった、ということも確かです。父親が息子の頬にキスをしたり、友人や親戚の頬にキスをすることには何の問題もない、というのは確かでしょう。しかしそれでも、ヴァルトルタはその一線を越えています。
そう、この「一線を越えている」というところが大事。ここが、いわゆる「目の付け所」というやつ。どういうものが「一線を越えている」と言われるべきか、についての "感覚" が大事。「それが愛情表現であることが確かならば、どんな愛情表現でも構わない」ということにはならないのだから。
(続き)
New Advent FAQ. 3 からの引用
バチカンの公式新聞「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」は、聖務省の調査結果を「ひどく脚色されたイエズスの生涯」と題する記事で要約しました。出版社は翌年、10巻からなる改訂版を出版することで非難を回避しようとしましたが、この作品は再びバチカンの新聞で非難され、「微妙に官能的な雰囲気によって薄められた、幼稚さ、空想、歴史的および解釈上の虚偽の山」と評されました。
「微妙に官能的な雰囲気」。その通り。
その真の書き手(ヴァルトルタではない)は、はっきり書かない。常に、この「微妙さ」というのを使う。「ずるい」のである。「ずるい」の代表は誰ですか。 あくま ! \(‘0‘) 正解 !
(続き)
マリア・ヴァルトルタ著の多巻からなる散文作品『神人の詩』は、イエズス自身によって明らかにされたキリストの生涯を事実に基づいて記述したものとされています。この作品への関心は、メジュゴリエの自称預言者の一人が聖母マリアがこの本の朗読を許可したと主張したことで高まりました。
メジュゴリエの幻視者であるヴィツカ・イヴァンコヴィッチ(Vicka Ivankovic)が、1988年1月27日、アメリカ人弁護士とのインタビューで、「聖母は、イエズス様を知りたい人はマリア・ヴァルトルタの『神人の詩』を読むべきだとおっしゃいました。あの本は真実です」と語ったのです。
リック・サルバト氏はこう問いかけています。「ローマは1949年、1959年、1960年、1985年、そして1993年には二度も、この本を非難しました。人々はこれ以上何を望むのでしょうか?」(Unity Publishing)
ジョン・ローナン神父
2001年3月20日
ローナン神父の序文はこれで終わり。
さて、お待たせしたが、ここから、ヴァルトルタの「イエズス」の「官能性」を窺わせる箇所の列挙が始まる。
文中、「Vのイエズス」とあるのは「ヴァルトルタのイエズス」の意味である。
注)私は引用文中に archive.org で見られる当該ページへのリンクを付け加えておいた。(archive.org)というふうに。
ただし、それらは一時閲覧(Borrow)のみ許されているものなので、アカウントを取ってログインしてからでないと見られない。また、あらかじめログインした上でないと、(archive.org)をクリックしても当該ページに正しく飛ばない。
また、改訂版にもリンクしておいた。これは直接 PDF が開く。リンク元はベトナム語で書かれたサイトである。
第1巻
最初のこの箇所だけ、「官能性」とは関係がない。
|
||
|---|---|---|
|
Vのイエズス:「私は釣りに行ったことがないので、あなたに教えてもらいたいのだが。」 V's Jesus: "I have never gone fishing and I expect to be taught by you." 「先生、ご覧下さい。私たちはこうします。私はゼベダイのヤコブの舟のそばに出て、二艘の舟で一緒に正しい地点まで行きます。それから網を下ろします。片方の端を持ちます。先生は、自分もそれを持ちたい、とおっしゃっていましたね。」 "See, Master: this is what we do. I go out beside the boat of James of Zebedee, and we go thus to the right point, both boats together. Then we lower the net. We hold one end. You said You wanted to hold it." Vのイエズス:「そうです。あなたが私にどうすべきかを教えてくれれば。」 V's Jesus: "Yes, if you tell Me what I have to do." 「先生、どうかお気をつけ下さい。これは私たちの日々の糧なのです。網が揺れでひっくり返らないよう、網から目を離さないで下さい。魚たちは力強く尾を振って自由を求めて抵抗します。そして、もし魚がたくさん集まれば……先生もお分かりになるでしょう。小さな生き物ですが、十匹、百匹、千匹と集まれば、リヴァイアサンのように強くなるのです。」 "Please, Master, be careful, it is our daily bread. Keep an eye on the net, that jolts may not turn it over. The fish fight for their freedom with strong strokes of their tails, and if there is a lot of them. . . You will understand. They are small things, but if ten, one hundred, a thousand get together, they become as strong as Leviathan." |
何とも頼りない、心もとない「主」である。しかし、人は意外とこう思うかも知れない。「確かに、いかにイエズス様といえども、御自分が全く未経験な分野に関しては、こんな感じだったかも知れない」と。しかし私は、ヴァルトルタに書かせているのは「悪魔」だと確信しているので、福音書の中の漁にまつわる場面でイエズス様が常にどんなに力強かったかを思い出すだけだ。悪魔はイエズス様のイメージを弱く頼りなく改変しようとしている。
*
さて、ここから「官能的」な箇所のピックアップが始まる。読者に素材に直接当たってもらうのも悪くないが、一言、言わせてもらう。
一言で「愛」と言っても色々ある。家族愛、友情、隣人愛、人類愛、自己愛、性愛など。古代ギリシャ哲学で言えば、アガペー、エロス、フィリアとか。特にテツガク的になる必要はないけれど、そのような分類があることを念頭に置いて、「見分ける」ことができなければならない。たった一つ「愛」という語だけを持ってボ~~ッと立っているなら、私たちは足を掬われることになるだろう。読者においては、以下に広がる「愛」の情景が一体どのような種類の「愛」の情景なのか、考えてみて欲しい。(「エロスなんでないの?」というぐらいには、あなたにも感じられるはずだ。)
これらの情景が「イエズスと弟子たち」のことだと吹き込まれていなければ、人は違和感を感じるはずである。しかしヴァルトルタ信者は、そのようにしっかり吹き込まれているので、要するに「目をくらまされ」て、大して違和感を感じないのに違いない。

ヴァルトルタ信者ばかりでなく、カトリック信者は「愛」に弱いところがある。「愛」と言われればイチコロなところがある。
悪魔に騙されないようにね!
|
||
|---|---|---|
|
ペテロはイエズスの手を取り、その手に口づけをする。ペテロは深く感動する。 Peter takes Jesus' hand and kisses it. He is deeply moved. アンデレ〔ペトロの兄弟〕はイエズスを見つめるが、イエズスの手を取る勇気はなかった。しかしイエズスは、アンデレの髪を撫でながら (caressing)「私はあなたのこともとても愛している」と言う。 Andrew looks, but does not dare take Jesus' hand, but Jesus caressing his hair with His hand says: "I love you very much, too." |
「愛している」はいいとしよう。しかし、「髪を撫でながら『愛している』と言う」となると、話は違ってくる。それは人に「恋人たち」を連想させる。(あなたは、私が特に意地悪な見方をしていると思うか?)
このような身体接触(撫でる)を伴いながらの「愛してます」は、イエズス様にふさわしいだろうか。私たちは "感覚" を鋭くして、よく考えてみなければならない。
|
||
|---|---|---|
|
「ああ、主よ! お待たせしてしまいましたか?」。ヨハネは恋人のような目でイエズスを見つめた。 "Oh! Master! Have I kept You waiting?" John looks at Jesus with the eyes of a lover. |
先ほどと同じように言うことができる。「見つめる」のはいいとしよう。しかし、「恋人のような目で見つめる」となると、話は違ってくる。
私たちは福音書の中に使徒ヨハネに関して次のようにあるのを知っている。
弟子の一人が、イエズスの胸に寄り添って食事の席に着いていた。その弟子をイエズスは愛しておられた。(ヨハネ 13:23)
最後の晩餐のシーンである。この箇所は人々の想像力を、わりあい刺激するようだ。特に、「胸に寄り添って」とあるからだ。悪魔は「利用価値がある」と見るだろう。
確かに、ヨハネはイエズス様に特に愛されていたかも知れない。また、信頼されていたことは確かだ。十字架上のイエズス様からマリア様のことを託されたのだから。しかしそれでも、福音書の中に「恋人のような目」は確認されない。
しかし、それでも、あなたはこれを「四福音書が書いていない主の生涯の脱落部分」と見るのだろうか。実際、それは「恋人のような目」だったのかも知れない、その可能性があると? まあ、「可能性」について考えるのは自由だ。しかし、もう少し警戒したほうがいいのではあるまいか。読み進めよう。
|
||
|---|---|---|
|
イエズスが詩篇を唱え、ヨハネも一緒に祈るが、彼の声は次第に小さくなり、イエズスの膝に頭を乗せたまま眠ってしまう。イエズスは微笑み、眠っている弟子の肩に自分のマントを広げ、心の中で祈り続ける。 Jesus says some psalms and John prays with Him, but his voice dies down and he falls asleep with his head on Jesus' lap. Jesus smiles and stretches His mantle on the shoulders of the sleeping disciple and continues to pray mentally." |
人はこれを「美しい愛の情景」と見るだろう、まず間違いなく。
しかし、もしこれが悪魔の作だとしたら?
だって、書けるんですよ、悪魔は。この程度のものは。
人間のシナリオライターだって書けますよ。
このように、醒めた目で見ることが大事。
簡単に感心しちゃ駄目。吸い込まれちゃ駄目。
|
||
|---|---|---|
|
Vのイエズス:「あなたはそのために苦しみましたが、真実を語りました。私はあなたを喜んでいます。次回からは、善い人であるためにそれほど苦労しなくて済みます。大切なのは最初の一歩です。よくやった、ユダ!」。そして、イエズスはユダを愛撫する (caresses) 。 V's Jesus: "You suffered for that, but you have told the truth. I am telling you that I am pleased with you. The next time it will not cost you so much to be good. It is the first step that matters. Well done Judas!" and Jesus caresses him. |
「愛撫」という言葉が特に性的なイメージを喚起するというので、あなたは私を非難するだろうか。「別の言葉もあるのに」と。
では、「愛撫する」ではなく「撫でる」としますか?
しかし、そこにどれほどの違いがありますか?
第2巻
|
||
|---|---|---|
|
Vのヨハネ:「主よ、あなたはなんと喉が渇いておられたことでしょう! 愚かにも、私は水を汲みに行きませんでした。」 V's John: "How thirsty You were, my Master! I foolishly, did not get any water." Vのイエズス:「ヨハネ、もう大丈夫だ。すべては終わったのだ」。そして、イエズスはヨハネを撫でる (caresses) 。 V's Jesus: "It does not matter, John. It is all over" and He caresses him. |
「撫でる」にしてみました。何が変わるのか。
|
||
|---|---|---|
|
イエズスは微笑み、森で摘んだ葉で作った素朴な敷き物の上に座る。イエズスは身をかがめてヨハネの頬にキスする。ヨハネは目を開け、イエズスを見て呆然とする。彼は起き上がり、「私が必要ですか? 私はここにいます」と言う。 Jesus smiles, sits on the rustic mattress made of foliage picked in the wood. He bends and kisses the cheek of John, who opens his eyes and is dumbfounded at seeing Jesus. He sits up and says: "Do you need me? Here I am." Vのイエズス:「いいえ。他の人たちと同じようにあなたを起こしたのですが、あなたは母親だと思ったようですね。だから私は、母親がするように、あなたにキスしたのです。」 V's Jesus: "No. I woke you up as I did the others, but you thought it was your mother. So I kissed you, as mothers do." |
きもいイエズス。この一言である。
この「イエズス」は「キス好き」のようなので気持ち悪いし、更にここでは「母親のようにキスした」などと言うのだからなお気持ち悪い。
そうではないか? 自分の身に置き換えて考えてみて欲しい。
あなたが男親だったとして、なかなか起きない子供が寝ぼけて「ママー」と言った場合、「ママのようにキスする」ことを思いつくだろうか? 私なら、その子のことを心から愛していたとしても、また、その時のその子の様子をとても可愛らしく思ったとしても、そんなことをするのは嫌だ。私は男なのに「ママのようにキスする」なんて。そんなことは思いつきもしないし、試しにやってみることさえ嫌だ。私は女形(おやま)ではないんだぞ。
いや、これは笑い話ではない。この「イエズス」は変である。そのように性差の柵を気軽に乗り越えるのも変だし、そもそもそんなこと(母親のようにキス)をするのは無意味である。愛の戯れの中で半ば盲目になった人だけがそこに意味を感じるかも知れない、という話だ。
さて、そして、次の箇所は上の箇所の続きである。「イエズス」から「母親がするようなキス」をされた「ヨハネ」はどうなったか。
|
||
|---|---|---|
|
下着姿のヨハネは、チュニックとマントを寝具代わりにしていたため、半裸のままイエズスの首に抱きつき、イエズスの肩と頬の間に頭を乗せて言った。「ああ! あなたは母以上の存在です! 私はあなたのために母を捨てましたが、母のためにあなたを捨てるつもりはありません! 母は私をこの世に生み、あなたは私を天へと運んでくださるのです。」 John, half naked in his undertunic, because he used his tunic and mantle as bed covers, clasps Jesus' neck and lays his head between Jesus' shoulder and cheek saying: "Oh! You are more than a mother! I left her for You, but I would not leave You for her! She bore me to the earth. You are bearing me to Heaven." |
いよいよ危なくなって来たぞ。
次の箇所も、少し中略が入るけれど、話としては上の続きである。「下着姿で半裸のヨハネ」と「イエズス」はどうなったか。
|
||
|---|---|---|
|
〔…〕 ヨハネは愛に燃え、息を切らしながら微笑み、涙を流し、まるで情熱に疲れ果てたかのようにイエズスの胸に寄りかかっている。イエズスは愛に燃えながら彼を愛撫する。 John smiles and weeps, panting, inflamed by love, relaxing on Jesus' chest, as if he were exhausted by his ardour. Jesus caresses him, burning with love Himself. 〔…〕 Vのイエズス:「心配するな、ヨハネ。お前と『愛』の結婚は誰にも知られない。着替えて来なさい。出かけなければならない。」 V's Jesus: "Do not worry, John. No one will be aware of your wedding with the Love. Get dressed, come. We must leave." |
あなたは、この作品に言われるままに、これは「イエズス」と「ヨハネ」の場面を描いたものと思い、読んだかも知れない。が、一度その思いを外して見直してみて欲しい。それは「先入観」「思い込み」というやつかも知れないから。
私に言わせれば、これは「ポルノチック」でありかねない描写である。
「愛に燃え、息を切らして」いるのだから。
「愛に燃えながら、愛撫する」のだから。
「聖なる物語」を描いたはずのものとしては、全く異常である。
それとも、人はこれを「聖なる情交」とでも呼ばなければならないのだろうか?(語義矛盾だと思うが。)
私の考えでは、イエズス様は「神」だが、「人」として見た場合、彼は「霊の人」であって「肉の人」ではない、「体の人」ではない。だから、仮に「愛に燃える」ことはあったとしても(だが、私は福音書の中にその表現に見合う場面を知らない)、愛に燃えながら相手を「愛撫する」なんてことは決してない。
悪魔はこのように、人間を馬鹿にしているのである。人間というものが簡単に「先入観」にとらわれることを知って、ここでも気づかないだろうと踏んで、文章にイタズラして、あり得ない情景を創作して、クスクス笑いをしているのである。そして、その通りに、あなたは気づかないというわけか?
「イエズス」と「ヨハネ」のこの一件を含む章、途中まで。英語
「イエズス」の「私は母親がするようにあなたにキスした」という言葉をGoogle翻訳は女言葉に訳した。AIも理解できないってさ。
次の箇所も上からの続きである。「ヨハネ」との愛熱に燃えたひとときを終えた「イエズス」は、外に出て、群衆の方に向かう。群衆の中にイスカリオテのユダがいる。
|
||
|---|---|---|
|
イスカリオテは涙を浮かべながら、はにかんだ笑顔でイエズスを見つめる。イエズスは通りすがりに彼を優しく撫でる。 Iscariot looks at Jesus with a shy smile, marked by tears. Jesus caresses him passing by. |
「通りすがりに撫でる」なんていやらしい。まるで、通りすがりに女子社員のお尻を撫でる昭和の助平上司のようではないか。
とにかく「身体接触」が好きなのである。ベタベタと。
|
||
|---|---|---|
|
イエズスは腕でヤコブの肩を抱き、彼を自分の方に引き寄せる。 Jesus embraces James' shoulders with His arm to draw him closer to Himself. |
福音書の中に、主のこのような動作は見受けられない。
ヴァルトルタの作品の真の書き手(悪魔)は「新しいイエズスのイメージ」を作ったのである。「新しい福音書」を作ったのである。しかし、それは「新しい聖福音書(New Holy Bible」ではない。「新しい、不浄な福音書(New Unholy Bible)」である。
どのような仕方でか?
とにかく「愛」でさえあればどんなものも美しいかのように描くことによって! 「愛の戯れ」は「愛」であるからどんなものも美しく且つ無意味ではないかのように描くことによって!
しかし、そうではない。ある種の「愛の戯れ」は無意味である。
「母親がするように、あなたにキスした」はその代表格である。
|
||
|---|---|---|
|
それからイエズスは従兄弟を自分の方に引き寄せ、ヤコブはヨハネのいつもの姿勢をとる。〔すなわち〕頭をイエズスの胸の上部に預け、片腕をだらりと垂らし、もう一方の手を従兄弟〔イエズス〕の手の中に置く。夕暮れ時、茂みの中で鳥たちがけたたましくさえずり、遠くで牛の鈴の音が遠ざかり、消え、木々の梢をそよ風が優しく揺らめき、日中の暑さの後には涼しく爽やかで、夜には露が降りることを予感させる。 Then Jesus draws His cousin towards Himself and James takes John's habitual posture: his head resting on the upper part of Jesus' chest, one arm hanging loose, the other hand in that of his Cousin. They remain thus, while in the dusk, birds twitter loudly in the thicket, the tinkle of cattle-bells recedes and fades in the distance, and a light breeze rustles caressingly in the tree tops, cool and reviving after the heat of the day, and promising dew in the night. |
ヴァルトルタの「イエズス」は「ヨハネ」だけでは飽き足らず、「ヤコブ」にも「ヨハネ」と同じポーズを取らせる。
後半は、美文である。笑わせる。天国はこんな文章表現にかかずらっていない。
|
||
|---|---|---|
|
(ヤコブはイエズスの胸に顔をうずめて泣いている。) Vのイエズス:「さあ、こうしてあなたに口づけをしよう。こうすればあなたは、人間としての私の運命 (My fate as Man) の重荷を忘れることができる。あなたが頼んだように、適切な時に、あなたはこれらすべてを思い出すだろう。イスラエルの民に私の言葉を繰り返さなければならないあなたの唇に口づけをしよう」。二人は長い間抱き合ったままで、ヤコブは神の口づけの喜びの中でうとうとと眠りに落ちたようである。 V's James weeps on Jesus' chest. V's Jesus: "Come I will kiss you thus, to help you forget the burden of My fate as Man. You will remember all this at the right moment, as you asked. I kiss your lips that will have to repeat My words to the people of Israel." They remain embraced for a long time and James seems to doze off in the joy of God's kisses. |
悲しみを忘れさせるために口づけ!
やがてその唇で宣教しなければならない弟子の唇に長い口づけ!
笑えるやら、馬鹿馬鹿しいやら。
こんなこと、イエズス様がするはずがないだろう!
ところで、Bro. James は「人間としての私の運命(My fate as Man)」というところに下線を引いている。特に注釈を入れていないが、何故なのか?
それはたぶん、十字架上で終わる主の御受難は「人間としての運命」と言われるべきではないからだろう。
また、「fate」という言葉も問題なのだろう。同じ「運命」と訳される「destiny」という言葉には「神意」というニュアンスがあるのに対し、「fate」という言葉には「事の成り行き」というニュアンスがあるらしいから。
|
||
|---|---|---|
|
Vのイエズス:「もし誰かがあなたの外套(マント)を奪おうとするなら、下着(チュニック)をも与えなさい。あなたが柔和で富に執着しないというところから結果するのであれば、たとえ完全に裸 (completely nude) のままであっても、主の天使たちを惑わすことも、神の限りない純潔を辱めることもないだろう。」 V's Jesus: "If anyone should rob you of your mantle, give him also your tunic. If you should remain completely nude because of your mildness and detachment from riches, you will not scandalise the angels of the Lord or the infinite chastity of God." |
当時、その地方で、しばしば強盗が出たならば、人は確かに、身ぐるみ剥がされて「完全に裸 (completely nude) 」になることも想定しなければならなかったかも知れない。しばしば「下着」と訳される「チュニック」(筒状の長い衣服)の下に「腰布」など何も着けていなければ。
しかし、今まで「Vのイエズス」の様子を見てきた私は、上のような当時の状況を考えることは彼に対して親切すぎることだと思う。「キス」や「撫でる」ことが好きな彼であれば、ヨハネの「下着姿」や「半裸」を書いた彼であれば、「人の完全な裸」を書くことも自然である。ただ「彼らしい」というだけである。
第3巻
|
||
|---|---|---|
|
Vのイエズス:「私は彼らにどんな名前をつけようか。使徒たち、弟子たち、信者は『クリスチャン』と呼ばれることになるだろう。では、彼らは? 彼らはどんな名で呼ばれるだろうか? それは天国だけが知っている。地上で彼らが受ける報いは何だろうか? 私の口づけ、私の声、私の体の温もりだ。」 V's Jesus: "What name shall I give them? You apostles, you disciples, the believers will be called 'Christians'. And those? What name will they have? A name known only in Heaven. What reward will they receive from the earth? My kiss. My voice, the warmth of My body." |
アチャ~(/o\) こんなこと言っちゃったよ、このしと!
私は前後関係を読んでいないから(後で読むかも知れない)、この「イエズス」がどういう意味でこれを言ったのか知らない。しかし、果たして、前後関係でこの「イエズス」のこのような発言を擁護できるものだろうか?
私は、できないだろうと思う。どのような前後関係であろうと、どのような文脈の中でであろうと、地上のある種の人々にとっては「私の口づけ、私の声、私の体の温もり」が「報い」であるなどとは! 全てのカトリック信者が「腰を抜かす」べきである。
もう一度言う。イエズス様は「神」だが、人としては「霊の人」であって「肉の人」「体の人」ではないのである。「口づけ、声、体の温もり」などに重きを置くはずがない。解答は常に同じだ。こんな転倒したこと、逆さまのことを言う「イエズス」は「偽イエズス」でしかあり得ない!
*
だが、もう少し落ち着いて考えてみようか。私は自分に「どうどう」と言おう。
私は今、前後関係を読んだ。
章全体。英語,Google翻訳
問題の箇所は章の最後にある。
Bro. James は「イエズス」の言葉の最後の方を省略している。
省略しないで書くと、次のようになる。
私は彼らにどんな名前をつけようか。使徒たち、弟子たち、信者は「クリスチャン」と呼ばれることになるだろう。では、彼らは? 彼らはどんな名で呼ばれるだろうか? それは天国だけが知っている。地上で彼らが受ける報いは何だろうか? 私の口づけ、私の声、私の体の温もり。私のすべて。私、彼ら。彼ら、私。完全な交わり... 行きなさい。私はここに留まり、私のことを完全な仕方で知り且つ愛するようになるだろう未来の彼らについて思い巡らし、わが魂の喜びとしよう。あなた方に平和あれ。
And those? What name will they have? A name known only in Heaven. What reward will they receive from the earth? My kiss, My voice, the warmth of My body. All Myself. I, they. They, I. Utter communion... Go. I will stay to delight My spirit in the contemplation of those who in future will know and love Me in an absolute manner. Peace be with you.
「私、彼ら。彼ら、私」だって。彼は舌がレロレロして、うまく言えなかったのだろうか。
彼は、その名はまだ知られていない(天国だけが知っている)ところの、やがて「地上で」報いを受けることになるだろう或る人々について言っている。「地上で」というのは、おそらくは「主の再臨後の地上で」ということだろう。では、その人々も「クリスチャン」と呼ばれるのではないかと思われるが、それとは別に語られている。その人々は、落ち着いて「クリスチャン」と呼ばれる暇(いとま)もないないほどギリギリに、主の再臨の直前になってから回心して「滑り込みセーフ」になるような人々であろうか。(読者の中には「144,000人」というのを思い浮かべた人もあるかも知れない。)
その人々は、再臨の主と会った時、主の「声」を聞き、主に「口づけ」され、主の「体の温もり」を感じるという「報い」を得るのだそうだ。「Vのイエズス」はそのようなことを言っている。
「声」「口づけ」「体の温もり」、この三つは、再臨の主に一度「ハグ」されただけで叶うだろう。
しかし、私はなぜ「Vのイエズス」にこんなに親切に考えてあげているのだろう。私たちの人生では「最初に受けた印象、直感的に受けた印象が、結局、一番正しかった」ということがよくある。私は「アチャ~(/o\) 」を撤回するつもりなどない。
*
「終末」との絡みで語られることが多いだろう救いの情景として私の脳裡にまず真っ先に浮かぶのは「東から西から」「宴」というものである。
あなたがたに言っておく。多くの人々が東からも西からも来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに宴会の席につくが、国の子らは外の闇に投げ出されるだろう。(マタイ 8:11)
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分だけが外に投げ出されるのを知る。そこには嘆きと歯ぎしりがある。そして、人々が東から西から、北から南から来て、神の国で宴会の席につくであろう。(ルカ 13:28-29)
「神の国の宴会」は、もちろん幸福なものだろう。しかし、必ずこのように非常な「厳しさ」をもって語られている。
ところが「Vのイエズス」はと云えば、この「神の国の宴会」に「私の口づけ、私の声、私の体の温もり」という、甘い、そして「甘い」では済まない気色の悪いものを持ち込もうとしている。
*
あなたは、それでも、この「イエズス」の言葉を好意的に解釈しようとするだろうか。この「イエズス」を弁護しようとするだろうか。否、そんなことはやめて、私たちがこれまで見てきたものを振り返り、この「イエズス」がどんなに「口づけ」や「体の温もり」が好きらしいかを思い出すべきだ。
この「イエズス」は「肉体の官能に好意的なイエズス」なのである。つまり、本当のイエズス様などでは決してないということだ。
*
Bro. James の「抽出・列挙」はまだ続くが、私はこの辺でやめようと思う。もう十分だろう。
*
ローナン神父のこの記事は、最後に校正者(ローナン神父)と原筆者(Bro. James)のやり取りを記して終わっている。
Bro. James のこの論考は1988年頃のものだから、このやり取りはEメールによるものではあり得ない。手紙の交換か。
この批評の校正者
「もし私があなたのためにこれを校正すると約束していなかったら、読むのをやめてしまっていたでしょう。胃の中にあるものを吐き出さずに済むか分かりません。非常に不快です! 極めて冒涜的な内容です。多くの人がこれを信じているなんて恐ろしい。ヴァルトルタのイエズスは同性愛者です!」
ジェイムズ修道士(サレジオ会)
「第5巻が出版され次第、また批評します。 『神人の詩』はあまりにも悪魔的で、主イエズスからの特別な恵みがなければ、ヴァルトルタのイエズスによる一見無害な言葉に囚われてしまうでしょう。しかし、それらの言葉には、私たちの唯一にして聖であるカトリック教会の教えに反する嘘と異端が隠されています。『地獄の門も、私と私の教会に打ち勝つことはできない!』」
私自身は、今シリーズ記事で、はっきり「同性愛」と書かなかった。「ホーヴァット博士はヴァルトルタの作品の中に『同性愛傾向』を匂わす描写があることを指摘していた」という程度に書いただけである。と云うのは、もしヴァルトルタ擁護者たちの中に、失礼ながら、心が幼い人がいたら、あまりはっきりと「同性愛」と書くと、つい反発が先に立ってしまい、物事を冷静に見直すことができなくなってしまうかも知れないから。
しかし、私は本当は思っている。悪魔はヴァルトルタの『詩』に同性愛の香を、一見わかりづらい仕方で、全体的に振りかけたのだと。
同性愛は間違いなく悪魔の好むところである。
神は人類を創られた時(創世記)、「男」と「女」を創られた。それは人類創造に於いて最も根幹をなすものだった。はっきりしたものであろうと仄めかしであろうと、悪魔が同性愛を推進する時、それは神への最も深い攻撃であり侮辱である。
それを悪魔はヴァルトルタの作品の中でこそっとやっているわけである。
*
実は、私は翻訳を省略したが、ローナン神父は記事の冒頭に「マテオ神父」という人の短い言葉を引いていた。短いのはローナン神父が抜粋引用したからである。私は元の記事を発見したので、ここにもう少し長く引用しておく。
「マテオ神父」はカナダの Catholic Information Network (CIN) の「Ask Father」という人気の質疑応答のコーナーを長らく担当していた神父様で、「マテオ神父」というのはペンネームだそうである。1996年7月18日に御帰天。
彼のこの言葉は信徒からの「マリア・ヴァルトルタの『神人の詩』についてどう思いますか?」という問いに答えたもの。彼は以前受けた同様の質問に対して自分がした答えをここに再び繰り返す形でこれに答えている(おそらく、回答の前半で)ようだ。
この神父様は、一部で知られていたとはいえ、特に有名な人ではない。それはローナン神父や Bro. James だってそうだ。天使館が「著作をめぐる証言」で挙げていた多士済々と比べれば、まあ、格下と言っていいかも知れない。しかし、世間的な「格」が何だろう。「霊的識別」というなかなか微妙で困難な問題に関しては、世間的な地位や評判は全く当てにならない。市井の目立たない所にいる司祭だって、いい目を持っている人はいるだろう。「マテオ神父」はその中の一人である、と私は思う。
CIN Father Mateo Archives -->
June 10, 1993 - Poem of the Man-God
マテオ神父アーカイブ、1993年6月10日、『神人の詩』
〔…〕
親愛なるマイク、
私は、1992年2月19日、ジェフ・スティーブンスにこう書きました。
マリア・ヴァルトルタとその著書について『カトリック定期刊行物ガイド』は沈黙しています。私は1948年から1991年までの巻を読みました。ある批評家がこの本に対する敵対的な引用を28ページにわたってまとめたものを目にしました。彼は神学者ではないので、引用の正確性は確認していません。しかし、もし引用が正確であれば、この本は放っておくべきでしょう。これは病んだ女性の作品です [管理人注1] 。彼女の「キリスト」「マリア」「使徒たち」は、私たちの聖書や典礼とはかけ離れています [管理人注2] 。私たちは聖書に記された神の言葉を学び、それを広めるために、やるべきことが山ほどあります。時間をそのことに使いましょう。
私はむしろ、御聖体の前で聖書を手にし、読み、主の霊的な御言葉が真に意味しているところを示してくださるよう、主に祈り求めたいと思います。28ページに及ぶ引用文を読んだ後、本当に心がざわつきました。ヴァルトルタさんのことが悲しくてなりません。彼女が無事であることを願っています。彼女は1961年に亡くなりました。
***
ある人が私との約束をキャンセルしたおかげで、再び図書館に行くことができました。ヴァルトルタさんの『詩』が1959年12月4日に禁書目録に掲載されたことを知りました。現在は禁書目録は存在しないため、それを読んでも教会法上の罰則はありませんが、それが禁書とされた理由は今もなお残っていると思われます。訓練されていない読者にとっては、霊的に有害となる可能性があります。
[管理人注1] この神父様は好もしい神父様だけれども、こういう言い方には気をつけなければならない。「病んだ」と言う時、それは普通、医学的なことを意味する。しかし、ヴァルトルタが医学的に「病んだ」人だったのかどうか、確実なことは分かっていない。
[管理人注2] 「聖書」ばかりでなく「典礼」ともかけ離れている? Bro. James はそういう箇所を拾っていたか? 私は見落としたのか?
そういえば、サンドラ・ミゼールさんが「そのイエズスは、使徒たちに洗礼を授けた時、使徒たちに口づけした」というようなことを書いていた(参照、キャッシュ)。私はまた『詩』の本文を調べなければならないのか?
• POEM (archive.org)
Vol. 1 * * * * * * *
Vol. 2 * *
Vol. 3 * * *
Vol. 4 *
Vol. 5 * * *

