サブリミナル的
今シリーズ記事の7で、この言葉 ↑ を出したのだった。「また後で書く」と書いたので、書かなくちゃ。
まず、私は、「文章」というもののうち「描写的な文章」というのは、ほぼイコール「映像」だと思う。(言うまでもない当り前のことを言って恥ずかしい。)
以前、テレビの或るバラエティ番組を見た。そこでは「辛口」で知られる女性の俳句講師が、番組出演者たちが提出する俳句作品を講評・添削していた。彼女によれば、俳句の「言葉」がそれを読む者の脳裡にありありと「映像」を浮かび上がらせるのが「良い俳句」であることの一つの要件であるようだった。私は俳句界でそのような見方が標準的なものであるかどうか知らない。しかし兎に角、「言葉」というものが時に「映像」を喚起するものであることは確かだ。(こんな例を持ち出す必要はないのに持ち出して、恥ずかしい。)
さて、ホーヴァット博士が取り上げていたシーンをもう一度見よう。それは、「Vのイエズス」がヴァルトルタに幻視させたところの「聖母の授乳のシーン」である。
今、「シーン」という言葉を使ったのは、その場面を一つの「映像」として見たいからである。
それは聖家族がエジプトへの逃避行を慌ただしく準備する様を描いた章、「35. The Flight into Egypt.」に含まれる。
ヨゼフは夢の中で「エジプトに逃げよ」との天使の警告を受ける。そして、それを伝えるべく、マリアとイエズスがいる部屋に入る。
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彼は指先でとても優しく、そっとノックする。〔…〕 He knocks very gently, a very soft knocking with the tips of his fingers.〔…〕 イエズスは、私が東方の三博士の幻で見たのと同じくらいの年齢である。1歳くらいの、美しく、血色の良い金髪の子供である。彼は巻き毛の頭を枕に沈め、握りしめた拳を顎の下にして眠っている。 Jesus is the same age as I saw Him in the vision of the Magi: a Child about one year old, beautiful, rosy and fair haired. He is sleeping with His curly head sunk in the pillow and a clenched fist under His chin. |
「1歳くらい」というのを覚えておいてもらいたい。
マリアはヨゼフに促されて逃避行の準備を始める。
物の準備が終わった後。↓
「幼い子供とは思えない」とあるのも覚えておいてもらいたい。
このような情景に関し、私は前々回、次のように書いたのだった。
ヴァルトルタの作品に関してマリアン・ホーヴァット博士が指摘したのは「幼子イエズスが聖母のドレスの紐を解き、その乳房を露出させる」という描写だった(参照)。そこには、聖母の「白くて丸い乳房」という言葉すらあった。母親が幼い我が子に乳を含ませるのは自然なことだ。しかしそれでも、私はこの表現はあんまりだと思う。〔…〕 ──しかも、これは「聖母」に関する描写なのだ!
しかしその後、全体を眺めていく中で、問題なのは「白くて丸い乳房」ばかりではないと気づいた。この「幼子イエズス」とされているものの様子が変なのである。どうにも気持ち悪いのである。
違和感1
情景の要約
「1歳くらいのイエズス」が「微笑み、小さな手を母親の胸に伸ばす」。次いで「笑い、マリアの首元で結ばれているドレスの紐をつかみ、それをほどこうとする」。乳房が露わになる。「右の乳房」を吸い、「左の乳房」も吸う。彼はこれらを終始嬉し気にする。
私は、これは「1歳くらいの子供」らしくない、と思った。第一に私にそう思わせたのは、彼が「マリアの首元で結ばれているドレスの紐をつかみ、それをほどこうとした」ことである。このようなことをするためには、その紐の「目的」を、その「存在理由」を理解していなければならない。そして、「この紐の結び目をこうすれば、こうなって、こうなる」という予測もできていなければならない。一歳児に可能なことだろうか?
私は、普通の一歳児にはそこまでのことは無理、と思うのである。普通の一歳児は、もちろん母親の乳を求めることはあるだろう。けれども、その動作はきっと単純で、母親の乳房にまっすぐ手を伸ばし、そしてその手は、その辺りをうろうろするだけだろう。やがて母親が気づいてくれる。
しかし、この「Vの幼子イエズス」はそうではない。彼には「母親のドレスの紐をつかみ、それをほどこうとする」ことが可能だったのである。なぜなら、彼は「1歳くらい」でありながら、同時に「幼い子供とは思えない」面もある子供だったからである。
しかし、たとえ「幼子イエズス」が「幼い子供とは思えない」面のある子供だったとしても、「母親の首元のドレスの紐をほどこうとする」などというのは、どうにも「怪し過ぎる」話である。
違和感2
これは既に書いたも同然である。上で「終始嬉し気にする」と書いたのだから。しかし私は、人はこれにあまり気づかないのではないかと思うので、改めて書いておきたい。
あなたも、今一度、確認してください。↓
彼は、目覚めるや、さっそくのように母の胸に手を伸ばすが、彼はその時「微笑んで」いた。彼が母親のドレスの紐をほどこうとする時、彼は「笑って」いた。彼が母親の右の乳房から左の乳房に移ろうとする時、やはり「笑って」いた。
あなたは、これを妙だと思わないか?
あなたにとって「幼子イエズス様」は、こんなですか?
あなたの心の目に問うてみて欲しい。
私としての結論
母親の乳房に到達するために、直接そこに手を伸ばすばかりでなく、母親のドレスの紐をほどきにかかる、しかも嬉し気にそうするというのは、「一歳児」にふさわしくないし、「幼い子供とは思えない一歳児」にもふさわしくない。それが「よりふさわしい」のは、「世の男たち」の方である。
もちろんその場合、文章上、上の「母親」というのを「女」に換えなければならない。しかし、そんなことは問題ではない。ただの文章上のことであり、シナリオ上の「配役」に過ぎないのだから。この情景の本質を理解するためには、つまり悪魔がこの情景に潜ませた真の意味を知るためには、悪魔が決めた「配役」など、三千億光年先まで蹴り飛ばさなければならない。
が、それでも、ちょっと言い直そうか。
「女性のドレスの紐をほどきにかかる」というのは、幼児の振舞いであるよりは、まず圧倒的に「世の男たち」の振舞いである。
そのようなことを「嬉し気にする」というのも、幼児の感情というよりは、まず圧倒的に「世の男たち」の感情である。
つまり私は、悪魔は「1歳くらいのイエズス」の "愛らしさ" を頻りに強調することで人の目に分かりづらいものにしているが、実は、仮想「幼子イエズス」と母の情景に「世の男たち」と女性たちの情景を重ねて(レイヤーの重ね合わせのように)私たちに見せているのだと思う。もっと簡単に言えば、仮想「幼子イエズス」に「世の男たち」がやりそうなことをやらせた、ということ。
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そして、もしあなたがヴァルトルタ作品の中のこの情景を読んで、この真実に気づかなくても、この情景はサブリミナル的に、あなたの心に影響を及ぼすだろう。たとえ無意識的にでも、あなたはその「映像」を見たからである。