2026年6月20日

マリア・ヴァルトルタの啓示は悪魔由来のものである 11

注)引用文中の〔  〕や強調は私による付加です。
注)私自身の文章の中で時々「あなた」と呼びかけ調で書くことがありますが、これはただ想定上の読者のことです (^^;

これはひどい。ヴァルトルタの「手記」
から取られた『イエスが語る死の準備』

今回のシリーズ記事ので、私は、自分は昔、あかし書房からの『聖母マリアの詩』を持っていたし、『イエズスの受難』あたりも持っていたかも知れない、と書いた。しかし実は、今回の調べをするにあたり、若干、他の本も買ったのである。で、その中の一つが、次に紹介するものである。あまり見かけない本なので、資料保存の点からも買ったのである。しかし、この本が酷いのである。

まず、奥付と「あとがき」から引用する。

ORA DI PREPARAZIONE ALLA MORTE
ーーーイエスが語る死の準備ーーー

1994年4月4日 第1刷発行
著者 マリア・ヴァルトルタ
発行所 燦梨(さんよう)出版社
サイズ A6判/ページ数 41p/高さ 15cm

【訳者プロフィール】
田中 眞理子(たなかまりこ)…
東洋英和女学院短期大学英文科卒業
同大学英文専攻科修了
現在イタリア語翻訳・通訳者
訳 書
『聖母マリアの愛の炎』愛心館・世の光社

 あとがき

 この文はイエス・キリストがマリア・ヴァルトルタ(1897年~1961年・イタリア人)に一九五六年七月一四日に述べられた言葉を、マリア・ヴァルトルタが日記の中に書き取ったものです。
 マリア・ヴァルトルタはノート・ブックと呼ばれている日記に、イエスやイエスの母マリアや他の聖人が語る言葉を記し、マリア・ヴァルトルタが目で見る不思議なことを述叙しました。
 この文の始めに、
〝イエスはこう言われました、「聖なる時」を欲しがっている人のために、あなたに書き取ってもらいました。あなたへの大きな褒美として私のゲッセマニの臨終を見せました。友だち同士の深い愛のしるしは笑いや接吻ではなく、自分の悲しみを見せ合うことに信頼の深さがあるからです [管理人注1] 。あなたは私の友だちですからゲッセマニの園にいた時それを見ました。今、あなたは十字架の上にいます。死の苦しみを感じています。私が「死の準備」を語る間、私によりかかっていてください。〟
 と記してあります。
 マリア・ヴァルトルタの著書には、自叙伝、神と人との詩(キリスト伝)、ノート・ブックと呼ばれている日記、アザリアの書、ローマ人へのパウロの書簡の注解があります。
 この文はノート・ブックの中からの抜粋です。[管理人注2]

訳 者

[管理人注1]  これを読んで、私の体から空気が抜ける。こんなありきたりなこと、凡庸なことを、イエズス様が言うはずがない。

[管理人注2]  出た、ノートブック! ヴァルトルタの「手記」である。

さて、本文。

 「父よ、できますことなら、私からこの杯を遠ざけてください」

 この言葉は私が十字架の上で話した七つの言葉の一つではありません。苦しみがもうすでに始まっている言葉です。受難の第一場面の幕開けであり、終幕の幡祭に進行していく第一場なのです。生命の与え主に助けを求める祈りであり、甘受と謙遜をあらわしている祈りです。この祈りには、死の恐怖におののいている人の弱さと、人の心の奥からくる望みとが混じっています [管理人注1] 。この祈りにより肉の体は気高くなり、魂は完成されてゆくのです。[管理人注2]

 「父よ······」
 この世の感覚や考えは遠のいてゆき、これから身におよぶ来世のこと、未知のこと、裁きのことが、流星のように近づいてきます [管理人注3] 。このとき人は、たとえ百歳になっていても、いつもおびえている子供のようにたった一人で神のふところを探し求めています。

 死が生活からかけ離れていて、はるかかなたの霧の奥に潜んでいたころ [管理人注4] 、夫や妻、子供、両親、友だちは宝物でした。今、死がベールから顔をのぞかせ、人にしのび寄ってくるとき、状況が一変するのです。両親、子供、友だち、兄弟、夫、妻のはっきりした輪郭は消えてゆき、持っている愛情の重要性も薄くなり、やがて、足音高くやってくる死を目前にしてぼやけていってしまうのです。遠くの声が小さく聞こえるように、地上にあるものすべてが力をなくし、きのうまであんなに遠くにあった来世が力を増してきます······人間をたたきのめす恐怖の衝撃がやってくるのです。[管理人注5]

 もし死が、人間にとってつらいことでも恐ろしいことでもないとしたら、この地上の最後の罰でも、人間に与えられた最終的なつぐないの手段にもならないことでしょう。罪がなかったときには、死は死ではなく眠りでした。罪のないところには、聖母マリアのように、死というものがなかったからです。私は死にました。私の上には罪がおおいかぶさっていたからです。ですから私は死の恐怖を知ったのです。

 「父よ」。
 この神は何と愛されることが少なかったことでしょう。一番最後に愛され、血のつながった人や友だちを愛した残りの愛で愛されました。罪をなかだちして一番不適切な愛され方もしたのです。偶像のようにも愛されました。この神は何と多く忘れられたことでしょう。忘れられることをお許しになり、忘れられるままになさり、気長に許されました。ときどき嘲られ、ののしられ、拒まれました。この神が今、人間の考えの中によみがえり力を取り戻します。「私です」。という声が響き渡ります。神の啓示に驚き恐れ、死んでしまわないように、「私です」という言葉と「お父さんですよ」。という、ほっとする言葉で安心させるのです。

 「私はあなたのお父さんです」。
 もう怖がることはありません。神にゆだねる気持ちがこの言葉からわいてきます。私は死ななくてはいけませんでした。死ぬことがどんなことかを理解していました。ヤーウェを〝父〟と呼んで生きるように私は人びとに教えたあと、臨終のあがきのときに死ぬ人の心によみがえり、さらに近くなる神を〝父〟と呼んで恐れなく死ぬことをあなたたちに教えました。

 「父よ」。
 恐れなくていいのです。神はあなたのお父さんなのですから、死んでゆくあなたたちは父を怖がらなくてもいいのです。罪状と斧を手にした死刑執行人が、あなたたちの前に立ちふさがるのではありません。あなたたちの生命と大切な人を引き離しにくる皮肉屋ではないのです。腕を広げて
 「お帰り、休むために自分の家に戻ってきたね。あなたが地上に残してゆくものを、私は何倍にもふやしてあなたに返そう。悩み多い地上の戦いの中で、それ相応の報いがいつもあるとは限らない地上に残してゆく人たちのためには、私の胸の中の方があなたはずっと効果的に役立つということを、あなたとはっきり約束しよう」。と言うのです。

 でも死はいつでも苦しみです。体の苦しみの痛み、道徳上の苦しみの痛み、精神的な苦しみの痛み……。くり返して言いますが、時間の中の最後のつぐないの手段としての痛みなのです。霧が押し寄せ波打つ中で、人生で愛したこと、来世で私たちを恐れさせる魂のこと、精神のこと、心のことが、船が大嵐にあって波間を浮き沈みするかのように、薄くなっては消えてゆき、通過してゆくのです。間近に見える落ちついた平和な港は、静かで平穏な幸せがあります。大きな苦労が終わり、休息を目前に喜びをかみしめている人のような安らぎの気持ちがあるのです.....

 そして嵐が人をゆさぶり、打ちつけ、苦しめ、驚かせ、うめかせる場所をもう一度通過します。世間のすべての誘惑とからみあった悩み多いところです。家族、仕事、それが臨終の苦しみです。最後に通過するときの恐怖なのです。それから、それからは……闇が降り、光が消え、恐怖が吹き上げます……天の国はどこなのだ。どうして死ぬのだろう。どうして死ななければいけないのだ。叫び声がもう喉から突きあげています。
 「私は死にたくない!」

 死んでゆく私の兄弟たちよ、死は正しいのです。神が望まれるのですから正しいのです。そんなふうに叫ばないでください。この叫びは、あなたたちの魂からのものではありません。あなたたちの弱さを利用して敵が言わせる錯覚なのです。臆病でたてつく叫びを、愛と信頼の叫びに変えてみてください。
 「父よ、できますことなら、私からこの杯を遠ざけてください」。

 嵐のあとの七色の虹のように、その叫びはもう一度光と静寂を運んできます。もう一度天を仰ぎ死の正しい理由を考えてごらんなさい。父のところへ帰ることですから死は褒美なのです。精神も、いいえ、むしろ精神こそが肉の体よりも、もっと帰ることに大きな権利があるのです。精神は不滅で超自然のものです。ですから肉の体よりも上位にあります。それではあなたたちのすべての逆らった罪の許しとして、この言葉を言ってください。
 「でも、私の考えからではなく、あなたのみ旨が行なわれますように」。

 すると平和があり、勝利があります。神の天使があなたたちを抱きしめ、なぐさめます。あなたたちは戦いに勝ったのです。この戦いは、死を勝利に変えるのに必要な準備でした。

[管理人注1]  これだけで、あなたはもう分かっただろう。あなたが信者として普通の目さえ持っていれば。

[管理人注2]  明らかに「言い過ぎ」である。死に面した信者がこの祈りを唱えれば、あるいは「聖時間」の中でこの祈りを唱えれば、「肉の体は気高くなり、魂は完成されてゆく」のか? 否、それはもっとずっと難しいことのはずだ。あなたはこの「イエズス」の言葉を擁護できるか? できると言うなら、やってみて欲しい。彼に代わって追加的に説明してみて欲しい。しかしその時、この「イエズス」は少なくとも「舌足らず」だったことになる。大事な主題について「舌足らず」なイエズスなんているのか。

[管理人注3] 「流星のように」だとw  なかなか詩的、文学的じゃないか。ヴァルトルタの『神人の詩』を読んだかなりの人が、その文章の「美しさ」を讃えている(天使館「著作をめぐる証言」を参照のこと)。しかし、第一に、「美」は必ずしも「神」の仕事とは限らない。悪魔だってやるのである。人間の目を騙す程度のものは作る。第二に、これは私の感覚だが、この種の「詩的表現」が幾ら重なろうと、駄目である、感心しない。この程度の文章は三文文士でも書けると思う。

[管理人注4] 「はるかかなたの霧の奥に潜んでいたころ」。またまた「詩的」であるw  しかし、本当のイエズス様はこんな言い方はなさらない。確かに、福音書の中のイエズス様の言葉も「詩的」と評されることがある。代表的なのは「空の鳥を見よ」(マタイ 6:26)の御言葉である。これは信仰のない人からも「ちょっと詩的」と評されることがある。しかし、それは単に「詩的」なのではない。それは「神の視点」を感じさせる、実質、「教え」である。霊的インスピレーションに溢れた教え。しかし、ヴァルトルタの「イエズス」の言葉は「単に詩的」なのだ。表面的に「文学的にちょっと恰好のいい」フレーズをペタッと貼るだけなのだ。人は、そんなものの連続をいくら見せられても、感心してはならない。
この「イエズス」は、「神に関して書かれた書物には "人間的な埃" は入ってはならない」ように言いながら、自分の口から出る言葉は思いっきり「地上的」「人間的」「陳腐」なのである。

[管理人注5]  この程度の解説は要らないってば。ああ、いつまで続くんだろう、この種の陳腐な、解説に次ぐ解説、描写に次ぐ描写は。こんなものに感心する人はいるのか。

昔、林家三平という落語家がいて、自分の落語を進めながら客の反応が鈍いと見るやハタと話すのをやめ、「これがどうして可笑しいのかというと...」と半笑いで頭をかきながら説明を始め、それでかえって笑いを取る、ということがあった(歳がばれる)。私も、上の「イエズス」の話しがどれだけ変で酷いものであるか、更に「説明」しなければならないだろうか?

この本は、幅13cm、高さ15cm、総ページ数41という小さく短い本だが、それでも、最初から最後まで上のような調子でやるのだから、ある意味、十分に長い。本文は30ページくらいか。でも、もし読めば、あなたの頭脳に「もやもや病」が忍び寄るだろう。

彼、ヴァルトルタの「イエズス」は、主の御受難における主の御言葉を引きながら、救い主の御受難について説明するのでなく「人間」について説明するのである。多少、主の御事と結び付けながら。

私の説明は、ほとんどこれで終わりである。

あなたはこう思うかも知れない。

確かに、主のお言葉として、これは「通常ではない」かも知れない。しかし私は、ある目的のためには、こういう説き方も「可」ではないかと思う。ここに、死を怖れ、死に怯え、死に面して魂の平安を得ていない人間がいるとする。彼は死に対し、よく準備できていない。神はそれをご覧になる。神は愛であるから、何とかしてその者によい準備をさせたいとお思いになる。死を怖れなくてもいいんだよ、と教えたいと思召す。そこで、いろいろと理(ことわり)を説くと共に、御自身が御父に祈ったのと同じ言葉をもって祈ることを教える。これのどこが「おかしい」というのだろう?

そのように考える人も、意外と多いのかも知れない。

しかし、否である。「おかしい」のである。
が、説明は意外と難しい。うまく言える気がしない。

主の御受難は、主の御受難である。私たちは、もちろん、想像力を働かせて、主の御受難に同情申し上げなければならない。主は神であり、しかし同時に人間でもあられたから、確かに私たちは主の御苦しみの幾分かは想像できるのである。それで、自分の苦しみを主の御苦しみと重ねて、自分の心を慰めることもできる。そして、それは必ずしも悪いことではない。

しかしそれでも、主の御受難は、主の御受難である。それは「神」の御事である。「人間」の事ではない。やはり、私たちの苦しみとは、どこか決定的に違っている。主は御自分としては何の罪もなかったのに、ただ人類の贖罪のために御苦しみを引き受けられた。これが彼の御受難の意味である、御苦しみの意味である。中心的な意味である。

ところが、上の「イエズス」の言い方は、その中心的な意味を度外視して、主の「父よ、できますことなら、私からこの杯を」という祈りを、「死の恐怖におののいている人の弱さと、人の心の奥からくる望みとが混じって」いるものだ、などと解説し、それで終っている。

それに続く箇所も、ほとんど「死に面した時の人間の心の状態」の解説と描写である。もちろん、主がゲッセマニの園でその祈りを発せられた時、彼の人間としての部分がそのような状態だったことは確かかも知れない。だから、その解説それ自体を見れば、悪くないかも知れない。しかし、問題は「それ自体」ではない。「それ自体」は悪くないとしても、他に、それと合わせてなければならないものがないとしたら、「全体」は悪い。

言葉の質から見ても、内容を見ても、これは本当のイエズス様の御言葉ではあり得ない。こんなものが「主の声」である筈がない。

福音書の中の主の語り口を思い出せ。主は、庶民にも分かるようにと「たとえ話」などもされたが、しかし本質的に、インスピレーションを喚起するような「霊的」な語り方をなさった(「たとえ話」でさえ、ある種「霊的」な語り方と言える)。彼は、説明困難なものを無理に説明しようとはなさらず、時に「聞く耳のある者は聞け」と割り切られた。

そこへ行くとヴァルトルタの「イエズス」の語り口は、くだくだしく説明的であり、いかに一見美しく修飾されていようと、本質的には凡愚なものである。三文文士のやることである。

なんか、取っ散らかった文章になったが、これで何かが伝われば幸い。

https://fondazionemariavaltorta.it/preghiere-unora-con-gesu-lora-del-getsemani-lora-della-desolata-unora-di-preparazione-alla-morte/

https://www.valtortamaria.com/operaminore/quaderno/3/manoscritto/71/14-luglio-1946