2026年6月20日

マリア・ヴァルトルタの啓示は悪魔由来のものである 13

注)引用文中の〔  〕や強調は私による付加です。
注)私自身の文章の中で時々「あなた」と呼びかけ調で書くことがありますが、これはただ想定上の読者のことです (^^;

あまり権威に頼るなかれ

天使館の「著作をめぐる証言」を見て、私はまことに「カトリック信者」を見る思いがした。

あなたが保守的・伝統的な信者なら、こう言うかも知れない。「冗談でしょう。彼らはヴァルトルタを宣伝しているし、ヴァッスーラをさえ宣伝しています。それで何で彼らが『カトリック信者』だと言えるのですか」。然り。でも、何かにつけ「権威者」の言葉に頼ろうとするところに「カトリック信者」を感じずにはいられないのである。

確認しておこう。「著作をめぐる証言」に並んでいたほとんどの人は、「神か悪魔が介入したとしなければ説明がつかない」と言うべきところを、「神が介入したとしなければ説明がつかない」としか思いつかないような人たちなのである。そのような人たちがどうして、この「霊」というものを扱う分野において「有力者」「権威者」であり得ようか。「○鹿も休み休みに言え」のレベルである。(「他の人々」を参照のこと)

カトリック信者よ。「謙遜」もいいが、あまり権威に頼るなかれ。自分の目が肝心。

反問できなければならない

「権威」と言えば、ヴァルトルタ信者にとってのヴァルトルタの「イエズス」である。彼らにとってそれは、もうスッカリ「権威」になっている。そこから抜け出すこと、「夢から覚める」ことは、なかなか難しいかも知れない。でも、あなたは自分でいろいろ考えることができなければならない。すぐには呑み込まず、時には反問を返すことができなければならない。

その「イエズス」が何と言ったって?

幻視者ではない作家が書いたものはどれも空虚で、芝居がかった、不誠実な、勿体ぶった、鼻につくもの…(参照

「幻視者ではない作家」とは、ブレンターノのことを言っているのか。そうだとして、あなたは、こう反問しなければならない。

「空虚」「芝居がかった」「不誠実な」「勿体ぶった」「鼻につく」──なるほど。しかし、エンメリックの本の中、どの箇所がそのようなものに該当するのか、そのような形容に値するのか、たった一箇所でもいい、具体的にあげてみてください。

私は本当に、天使館の人たちにも問いたい。あなた方は、ヴァルトルタの「イエズス」のそのような言葉を受け入れているのか? そして、あなた方自身が、紛れもなくあなた方自身の目をもって、エンメリックの本の中にそういうものを "確認" できているのか? 確認できているというなら、一箇所でもあげてみろ。まさか、自分ではそのような箇所を一つも確認できていないのに、「とにかくイエズス様がそうおっしゃっているから」というのじゃあるまいな。そんな態度を何と言う。「受け売り」と言うのだ。自分がない者がすることだ。

しかし、もう一冊の本では、あなたは確信が持てず、満足できず、動揺し、吐き気を催すほどだった...(同参照

これはその「イエズス」がヴァルトルタに言ったことだ。だが、誰に言ったかは問題ではない。これを聞いたあなたがどう思うかが問題だ。エンメリックの本の中、この「イエズス」はどういうものを指してそう言ったのか、想像でも推測でもいいから、「こういうところを指しておっしゃったのではないかしら」と、具体的に指して言ってみろ。それが言えないなら、あなたとこの「イエズス」のこの言葉との間に、むしろ一線を引け。簡単に呑み込むな。

それらのページは、様々な理由から、見たものを忠実に反映していない。人間的な埃が真理の純粋さを汚してしまったのだ。人間が神の業に何かを付け加えたいと欲し、それを歪めてしまったのだ。(同参照

これも同様だ。エンメリックの本の中、あなた自身が、「それはこういう箇所だ」と指摘してみろ。指摘できないなら、「イエズス」のこの言葉を呑むな。

その「イエズス」は、まずはエンメリックの本についてそのように言っている。しかし、彼の「口振り」を見ると、どうもそれと限った話ではないように思われる。(↓先ほどと同じ箇所)

それらのページは、様々な理由から、見たものを忠実に反映していない。人間的な埃が真理の純粋さを汚してしまったのだ。人間が神の業に何かを付け加えたいと欲し、それを歪めてしまったのだ。いつものように。(同参照

この、最後の「いつものように」というのがあるからだ。ここには、「エンメリックの本」に限らず、「とにかく人間というものはいつもそんなもんだ」というニュアンスが滲んでいる。

彼は次のようにも言っている。

しかし、使徒書簡や使徒行録に関して書かれた他の書物は、読むことを依然として禁ずる。(同参照

ここに来ると、問題は「幻視書」の類に限った話ではないという感じになる。あれこれの神学者(人間)が「使徒書簡」や「使徒行録」について書いた本は、もしそこに「人間的な埃」が混入しているなら、推奨できない、ということになる。

しかし、考えてみよ。「人間」の書いたものに「人間的な要素」が入り込むことは、ちょっと避けがたいではないか。ヴァルトルタの「イエズス」は「人間的な埃が真理の純粋さを汚す」ことをいたく気にしているようだが、そんなことを言えば、私たちは『キリストに倣いて』だろうが『聖母マリアへのまことの信心』だろうが、はたまた『信心生活の入門』だろうが『イエズスの聖テレジア自叙伝』だろうが、更には『神学大全』すら、また更には『教皇文書』すら、ちょっと読めないものになるではないか。(そして、ヴァルトルタの「イエズス」の主張に従えば、おそらく『聖書』すら!*)

* ヴァルトルタの「イエズス」がどこかでそのようなことを仄めかしていた。ヨハネの黙示録についてだったかも知れない。その箇所を再び見つけ出して検証する余力が私にあるか分からない。

そして、もしそうなら、「人を通して人を教える」という教会のこれまでの(その全歴史を通しての)やり方は一体何だったのか、そういうやり方は神御自身のお望みであったはずなのに、ということにならないか。

解答はこうである。

神によく照らされた者が書いたものは、多少の「人間的要素」は入っていても、それが枝葉末節のことであり、信仰の本質を傷つけるものでなければ、問題ない。

問題ないのである。

ヴァルトルタの「イエズス」は、「真理の純粋さ」などと言いながら、極端なことを言い、「排除」にかかっているのである。

排除? 何のため? 自分だけに目を向けさせるためだ。

あなただけのためにも、またすべての人のためにも、私だけが教師なのだ。〔…〕私だけが、超自然的な知恵に対するあなた方の飢えを満たすパンでありたいのだ。(同参照

しかし、これは「甘言」である。「甘言」による「誘惑」である。こんなものに騙されるな。

彼は、「当り前」のことを言いながら真面目な信者の心を釣る名手である。

「人間の書いたものには人間的な埃が入るものだ」。これはある意味「当り前」のことである。だから、人はつい、これに頷く。

「神だけが真実であり、神だけが完全」。これも、言葉上、馬鹿みたいに「当り前」のことだ。しかし、真面目で純真な信者、そして特に現在の教会に失望している信者は、これについ頷く。「このイエズスに希望があるのではないか」と思う。

そして「イエズス」は、「だから、私にだけ聞け」と続ける。「あなただけのためにも、あるいはすべての人のためにも、私だけがあなたたちの教師なのです」と言う。(ああ、気持ち悪い)

しかし、天使館の人たち、あなた方がどんなに現在の教会に失望していようと、危機感をもっていようと、この「イエズス」の言葉に容易に頷いてはならない。悪魔は単純な嘘つきではない。二重三重に罠を仕掛けてくるものだ。教会の現状に憂いている人たちに対して、それに応じた罠を仕掛けて来るのである。

あなた方はそのような罠に対して十分警戒的だろうか? そのような巧妙な罠が「ある」と考えているか? 想定しているか?

例えばである、あなた方のサイトの「参考資料」のトップページには左のような表示がある。

「それは天と地獄との戦いである」と書いてある。なかなかいいこと言ってるw

この画像をクリックすると「イエズス」の長広舌に出会う。一応読んでみると、これもなかなかいいこと言ってるw

しかしである、そんなことは悪魔でも知ってる。教会の危機の本質は「天と地獄との戦い」にあり、などということは、悪魔でも知ってる。知ってるどころの話ではなく、まさに「知悉」しているのである。だから、それについて熱い演説をぶつくらい、何のわけもない。

あなた方は言うかも知れない。

確かに、悪魔はそのようなことを知っているでしょう。確かに、彼らがそう思えば、それについて熱い演説をぶつくらい、わけもないことでしょう。でも、なぜ彼らがそう思うというのですか。彼ら悪魔が、「天と地獄との戦い」について、「教会の危機」について、私たちに知らせたい、語って聞かせたいというのですか。そんなこと、あるわけないでしょう。悪魔は、そのようなことは私たちに隠しておきたいはずでしょう。知られたくないはずでしょう。だから、そのような警告、私たちを助ける内容を持つ警告をするのは、あくまで神であって、悪魔ではありません。だって、そのようなことをするのは、彼らにとって損なことですから。

もしあなたがそのように言うなら、私が上で言った「それに応じた罠」というのを理解していない証拠である。

悪魔は「ターゲットを絞る」ことがある。
彼らは、教会の現状について大して何も感じていないような、大多数のボンヤリした信者たちに、「教会の危機」について、「天と地獄との戦い」について、進んで話したいわけではない。しかし彼らは、そのような信者たちを対象とするのでなく、教会と世界にについて憂いを持った、危機感を持ったタイプの信者たちに「ターゲットを絞って」物を言うことがある。教会の危機について、世界の危機について、彼らは重ねてそれらしいことを言う、言って聞かせる。そのようにして、あなた方のようなタイプの信者の心をガッチリ掴む。さて、それからである。それから、彼らは話の中に非真実を、本当ではないことを何気なく忍び込ませる。そういう巧妙な、微妙な罠を仕掛けることがあるのである。

あなた方はなお言うかも知れない。

しかし、そんなことをすれば、一般的な大多数の信者にも、「教会の危機」について、「天と地獄との戦い」について、気づかせてしまうリスクがあるではありませんか。

答えはノーである。実際には、そこに大したリスクはない。一般的な大多数の信者は、残念ながら、何を見ても、何を聞かされても、結局、大した反応はしないのである。

そうではないか。私たちはそのようなことを見たではないか。
どれだけの信者が「ファチマ」に反応したか。霊魂が「振る雪のように」地獄に落ちてゆくことを警告した「ファチマ」に。
どれだけの信者が「ルルド」に反応したか。神がベルナデッタに三度「償いを!」と言わせた「ルルド」に。

だから、悪魔たちにとって「教会の危機」や「天と地獄との戦い」について人間に語ることは、実際上、大したリスクではないのである。「リスク&リターン」という言葉がある。彼らはその観点から、多少のリスクはあっても、見込まれる利益のために事を起こすことがある。

それはどんな「利益」かって?
保守的な、あるいは保守的と自分で思っている信者の心を、微妙に脱線させることである。

「微妙に脱線させる」とはどういうことかって?
信者に「神への熱心」を吹き込みながらも、同時に、その心に、
  •「聖性」への意識の低下
  •「罪」というものへの意識の低下
をもたらす、ということである。

それは「低下」であって「完全消失」ではない。
形の上で「神への熱心」を励ましている限り、彼ら(悪魔)としても「完全消失」までは望めない。望めるのは「低下」である。
だから、「微妙」と言うのである。

彼らはどうやってそれを「もたらす」のかって?
「イエズス」のイメージ、また「マリア」のイメージを、従前のものとは違ったふうに改変することによってである。「従前のイメージは理想化されたものだったのだ。私たちは、本当はもっと人間的で、人間味のある者だったのだ」と説くことによってである。ヴァルトルタの福音物語(『神人の詩』)では、「人間的で、人間味のある」イエズス、マリアの姿を、具体的に描いて見せたのである。

ヴァルトルタの福音物語の中、「罪」というものへの意識を「低下」させるのではないか、「ゆるく」させるのではないか、と感じさせる箇所を、次のページで訳してみたい。