2026年6月20日

マリア・ヴァルトルタの啓示は悪魔由来のものである 5

注)引用文中の〔  〕や強調は私による付加です。
注)私自身の文章の中で時々「あなた」と呼びかけ調で書くことがありますが、これはただ想定上の読者のことです (^^;

ヴァルトルタのその手記を自分で訳してみた

私にとって記念すべきものとなったヴァルトルタの「1949年1月28日の手記」を自分で訳してみた。
あなたはこれを本当のイエズス様だと思うか。

文中、 のマークで私のコメントを挿入した。

イタリア語原文 www.valtortamaria.comキャッシュ
英訳(一部)MariaValtortaOfficialEn
仏訳(一部)fr.mariavaltorta.wiki

The Little Notebooks 756

QUADERNETTI CAPITOLO 756

1949年1月28日

28 gennaio 1949

今日は1949年1月28日。

私の困惑にイエズス様は次のように答えられました。

イエズス様の御言葉

私はこれまで、真の啓示の書物であれ、誰それが受けたヴィジョンと称されるものを扱った書物であれ、あなたが読むことを決して許さなかった。しかし今、私はそれを許した。実際、私は、あなたのもとにこの二冊の本を持って行くよう他の人々に霊感を与えた。そうしなければあなたは決して知ることはなかっただろう二冊の本を。

これからは、もし望むなら、私について書いているものは、どんなものでも読んでかまわない。しかし、あなたは真っ先に、そのような読書を自らに禁ずる者となるだろう。なぜなら、人間が書いたものはどれも、あなたにはあまりにも詰まらないものに思われ、吐き気を催し、その書物を拒絶するだろうから。

あなたには、もはや、私について書かれた本、人間が書いた本を楽しむ機会は、与えられていないも同然だ。なぜなら、あなたは私の生涯と死の本当の姿を知ってしまったから、幻視者ではない作家が書いたものはどれも空虚で、芝居がかった、不誠実な、勿体ぶった、鼻につくものに感じるだろうからだ。しかしそれでも、あなたは私を、師であり殉教者である私を、ごく僅かな者たちが書き留めたものの中には見出すだろう。かつて私が、私自身が、師であり殉教者としての私自身を明かしたごく少数の者たちが書き留めたものの中にである。実際、あなたは既に、ホセファの本の中に、判断を誤ることなく私を見つけた。というのは、あなたがこの五年間に書き綴ってきたページの中に私がいるのと同様、その本の中にも私が真に存在しているからだ。

しかし、もう一冊の本では、あなたは確信が持てず、満足できず、動揺し、吐き気を催すほどだった... あなたは正しい! あなたはそこに私を見つけられなかった。本当のイエズスを。私の本当の経験のことも、私の母のことも、彼女の本当の胸の鼓動のことも、当時の世界のこともである。真理の生きた精髄に養われ、私を真に『見た』者たちは、人間の拵え物の味を好まないのだ。そして、それらのページ(アンナ・カタリナ・エンメリックの啓示のページ)は、その非常に多くの部分が人間によって拵えられたものなのだ。そしてあなたはこう自問した。「では、神を深く愛していたと言われるこの女性が、真実を語らなかったのだろうか?」と。

慈愛と正義をもってあなたに答えよう。かつてあなたに教えた、道具が完全な道具となるために欠くことのできない諸条件、すなわち、絶え間ない謙遜、入念な誠実さ、完全な服従を思い出しなさい。そのドイツ人女性はこれらの美徳を備えていた。

説明しよう。それらのページは、様々な理由から、見たものを忠実に反映していない。人間的な埃が真理の純粋さを汚してしまったのだ。人間が神の業に何かを付け加えたいと欲し、それを歪めてしまったのだ。いつものように。私があなたに与えた幻視についても、あなた自身であれ他の誰かであれ、もし何かを付け加えようとしたら、あるいは修正しようとしたら、同じことが起こるだろう。あなたは物語をもっと美しいものにしようとする。あるいは他の誰かが物語をもっと完璧なものにしようとする。あなた自身であれ他の誰かであれ、もしそんなことをすれば、すべてを台無しにしてしまうだろう。神だけが真実であり、神だけが完全な著者だからだ。

そして、この場合、私の教会がこれほど長い間、アンナ・カタリナの啓示を判定するのに当惑してきたのは当然だ。この場合はだ。しかし、あなたの場合は、教会は当惑する必要はない。なぜなら、単純な常識的感覚さえ持っていれば、正常な感覚さえ持っていれば、あなたが書いたページを読み、そしてそれをドイツ人女性のものと比較する時、そこに違いを感じるだろうし、あなたの中にこそ私を感じるだろうし、あなたの物語の中にこそ歴史的な真実を、純粋な真実を感じるだろうからだ。

ホセファの中に、私はいる。あなたはすぐに、そこに私がいるのを感じた。それはちょうど、あなたが、ベルティ神父があなたに書き送った僅かの言葉の中にも私を感じたように、またクロヴェッラ師があなたに書き送った文章の中にも私を感じたようにだ。

私のスタイルはユニークだ。あなたに与えた作品ように、私の言葉を増幅させて完全な作品にすることもできるし、ホセファのために書いた作品のように、言葉を短縮することもできる。いずれにせよ、あなたは私の言葉を聞くことができる。

あなたはこれを神父に見せなければならない。そして、もしできるなら、私の生涯について書かれたものを読みなさい。今、あなたは読むことができる。なぜなら、あなたはこの二年間、私についてすべてを見、書き記してきたからだ。

しかし、使徒書簡や使徒行録に関して書かれた他の書物は、読むことを依然として禁ずる。私だけがあなたに教えたいからだ。私、神である私だけがだ。父としての私、子としての私、聖霊としての私だけがだ。

Ti proibisco però ancora di leggere altri libri che trattino delle Epistole o degli Atti Apostolici. Io solo ti voglio ammaestrare. Io: Dio. Io come Padre, Io come Figlio, Io come Spirito Santo.

あなただけのためにも、またすべての人のためにも、私だけが教師なのだ。私は、神の教えが途絶えるとすぐに元の状態に戻ってしまうあなた方の未熟な無知、「永遠に未熟な無知」[管理人注1] に、私の知恵以外の知恵が入り込むことを望まない。だから、私はそのように望むのだ。なぜなら、私だけがあなた方を成長させ、あなた方を豊かにすることができるように、あなた方に「小さき者」でいて欲しいし、「貧しい者」でいて欲しいからだ。私は、あなた方が私に飢えていることを望むが、私だけが、超自然的な知恵に対するあなた方の飢えを満たすパンでありたいのだ。

覚えておきなさい。ホセファ〔メネンデス〕の中に私はいる。あなたの中にいるのと同様にだ。しかし、アンナ〔エンメリック〕の中には、完全な者を飾り立てることを望み、もはや彼自身のものではない顔を与えた者たちがいるのだ。

ここまでが「イエズス」の言葉。
ここからはヴァルトルタ自身による補足。

以下、この口述を分かりやすくするためのメモです。

今月22日、ジョヴァンニ・チェッサが、良き読書を求める人々に配るために、聖人の生涯に関する本を何冊か持ってきてくれました。彼は以前にもそうしてくれ、それらの古い本は私が様々な人々に善行を施す助けとなりました。私はそれらを読まずに配りました。

彼は今回は『愛の招き』(M・ホセファ・メネンデス修道女の著作)を持ってきてくれました。

以前、そのスペインの修道女の小さな写真がたまたま送られてきたことがあったのですが、私はそれ以来ずっとその本を読みたいと思っていました。しかしイエズス様が、私を教えたいのは自分だけだと仰られ、私に、啓示の本、あるいはそれに類する本を読むことを禁じていたので、その本を探すのをずっとためらっていたのです。

チェッサは、当時の枢機卿エウジェニオ・パチェッリ(1938年)の序文が載ったシスター・ホセファの著書と共に、『アンナ・カタリナ・エンメリックの啓示』も持ってきてくれました。私は「今度こそ、これらの本を読んでみよう! よく聞いていたから! 読んでみよう!」と心の内で言いました。

スペイン人女性の著作の中に、私はイエズス様を感じました。そこにイエズス様の全てを見つけました。イエズス様の御教訓の中にも、受難の描写の中にも。

ところが、もう一冊の本は! なんと残念なこと! 私はショックを受けました! ショックがあまりに大きかったので、最後の文字を読み終えた後、こう自問しました。「彼女は本当に、自分が見たものをこのように書いたのだろうか? あるいは、少なくとも、このように言ったのだろうか? それとも、彼女の幻視を書き留めるのを手伝った人が、勝手に描写を変えたのだろうか?」と。そして私は、後の方の考えを受け入れたいと思いました。なぜなら、神を愛する者が真実を変えることを許すなどあり得ない、と思ったからです。

今日、イエズス様は私にこうおおせられました... 「おそらく、この教訓は教会にも役立つだろう」。

もちろん、シスター・ホセファの本は、イエズス様をそこに感じるので、自分のために取っておこうと思います。でも、もう一冊の方は、ベルティ神父にいくつか気づいたことをお話ししたら、手放そうと思います。

真実を見たことのない人々は、その本を気に入るかもしれません。でも、私はそうではありません。それどころか、その本はイエズス様とマリア様の尊厳を損なっているので、私には不快なのです。

[管理人注1]  tua vergine ignoranza という言葉、英訳すれば your virgin ignorance となる言葉を、どう訳せばいいか分からない。そのまま「あなた方の処女的無知」とするのはおかしいだろう。結局、Google 翻訳や天使館にならって「あなた方の未熟な無知」としておいたが、これもあまり良くない。無知が未熟なのは当然だろう、成熟した無知なんて無いんだから、という気がする。
ところで、この部分はカンマによって続けられており、your virgin ignorance, your ever-virgin ignorance というふうになっている。カンマ以降が青の斜体によって強調されている。これはヴァルトルタ自身が強調したものかも知れない。そうだとしたら、ヴァルトルタはここに、いたく感じ入ったのだろう。「あなた方は、神の御前では自分は『永遠に無知な者』であると知れ」的な諭しを受けた気になり、身を屈めたのだろう。そうだとしたら、むしろ危ないことである。何故なら、悪魔は真面目な信者を感服させようとして熱く「謙遜」を説くことさえあるだろうからである。悪魔はそれくらいの「心理師」ではあるからである。

悪魔は「心理師」である。
だから、人よ、そう簡単に「感服」するなかれ。

神の御前で極限まで謙って自分の無知を認める、というのは、一見良さそうである。しかし、実はそうでもない。教会がこれまで伝統的に教えてきたこと、教会がこれまで認めてきた神学書や勧めてきた黙想書・信心書について、「それらの本も、私たちが読むことを控えるべきほど、人間的な埃がひどく混入したものなのですか?」と、その「イエズス」に反問するほどのものがヴァルトルタには必要だった。なるほど、人間の書くものにはどうしても「人間的な埃」が混入するものだろう。それは避けがたいものだろう。しかし、神によく照らされた人の著作は、「人間的な埃」はあるにはあっても少量で、しかも枝葉末節的なところに於いてだけであって、全体としては立派に神の教えの本質を捉えている、ということだって少なくない筈だ。しかし、ヴァルトルタの「イエズス」はそういうことをあまり気に留めないようで、「人間が私の生涯の物語に人間的な埃を混入するのはいつものこと」と事も無げに言い、「私にのみ聞け。神である私が今こうして話しているのだから」的に言う。しかし、ここで人は彼に問わなければならない。「なら、人を通して人を教えるという、神に照らされた人が他の人々を教え導くという、今までのやり方は何だったのですか。あなたが今頃そんなことを言うなら、神であるあなた自身が人を通して人を導くというやり方に於いてこれまで失敗してきたということになりませんか。あなたにも責任の一端はあるということになりませんか。あなたはあまり気にしていないようだが」とでも。

真面目で素朴な信者というのは、「貧しくあれ。小さくあれ」と「謙遜」を説かれるだけで、思わず「ああ、その通りです」となり、身を屈めたくなるだろう。しかし、時には、そうなる手前で少し踏みとどまって、「反問」することも必要だ。質問する力、つまり「批判力」もなければ、人は騙されてしまう。